千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 酒向 幸男さん】

柿のなる秋の日西洞
~やっぱ人が欲しいね~

Posted: 2022.03.31

聞き書き

「聞き書き」は、インタビューや聞き取り調査とは違い、語り手の口調を一字一句そのままに書き起こしています。過疎化が進み、かつてあたりまえに営まれてきた里山での暮らしの知恵や技術が失われつつある中で、地域の人々の記憶を通じて、自然とともに生きる知恵や生活の哲学を学びます。

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蜂屋柿は今年はどこもいっぱいなっとるやろ。いろみがはやいで、まあそろそろそろ採ってもいいかもわからんけれど。ちょっと早いもんで。暖かいもんで。今干すとカビちゃう。ひねらんうちに、あかんようになるとあかんで。干したとこもあるけど、カビちゃうで。

兄弟

兄弟は、いち、にい、さん、しい。わしは六人。当時、子供は多かったということもあって、その家(うち)によっては子守もしなんし、終戦後特に、兵隊から戻ってきてみんなで一緒になって、子供は次から次へと生まれてくるで兄弟が多かったでね。昔は、はやり病やなんかで亡くなる子が多かったもんで、私が生まれる前に二人。二つか三つぐらいで死んでるんかな。次男坊として昭和十五年に生まれて、二つ下の子が中一の時にちょっと事故で、ここの家(うち)作る前に亡くなった子がおるし。結局、今、もう(まあ)わしの弟が一人おるだけで。家(うち)におらなあかんということで、跡をついだが、いまだに貧乏しとるわ。

田植え

昔は小学校一年生でも、田植えと秋の稲刈りは、農繁期といって農休みやった。学校休みやった。二日も三日も手伝って来いと。学校休んで、それやりよったんやね。

田植えはお祭りみたいやったね。田植えが一番の仕事やったけど、俺んたあはちょっと遅かったで、そうゆう風にずれがあるもんで。他所から自分のとこが済むとお手伝い(てったい)に来てくれよったね。お手伝い(てったい)は、近所の人やよ。廿屋(ツヅヤ)のほうの人とかね。大体(でーたい)。女の人が多かったね。田植えだけはやっぱりどうしても手数がいるもんで。手植えばっかやで、機械(こんなやつ)はないで、たくさんある人はそういうお手伝い(てったい)頼んでね。今みたいに箱苗で作るわけやあらへんで、苗から取ってかなあかんもんで、手伝(てったう)ことはあたりまえやったね。その日のうちに植えなんで。昔はそうゆうことをやりよおったね。今は知らん顔やけど。そんでええけど、今は機械でやってくだれるで。ちょっと時間あると田んぼ入って、一緒にこう植えて。金払うわけでもなし。本当のお手伝い(てったい)やね。子供もね。

昔は機械もなにもないでね、田んぼ掻(カ)くにも、どこの家(うち)でも、牛や、終戦後は馬がおったで。この前にそこに牛小屋があった。玄関入った右側は、台所(だいどこ)っちゅうか、庭(にわ)台所(だいどこ)ちゅうか、どこのうちやて部屋あるわね。そこがだいたいが馬(まや)小屋(ごや)やった。ほんでここら辺に、火であたる囲炉裏(イロリ)があって、そこがメシ食うとこやった。昔の造りやけど。

畑は養蚕が一番金になったんやないかな。昭和三十何年ごろまではやったんやでね。戦前からお蚕、この辺はぜんぶやっとったとゆうことやないやろか。この部屋の中はお蚕だらけやった。ほんとのお蚕処は、大きい家で二階までもあったんやろうが、このへんはそんなわけにはいかんで、全部(ぜんぶ)部屋(ここ)で、下の小屋でやってみたりね。それが一番の糧やなかったやろか、生活のね。

お蚕をやりながら、タバコを五、六年作ったかな。昭和何年ごろかな。子供のころ手伝った事があるで。大きな葉っぱやもんで、タバコの葉っぱは。そいつをそれなりにとってきて、そろえて、乾燥して、集荷場があったと思ったけど。古井やね。この集落で五、六軒で共同で作って、今はないけど乾燥小屋を。火を焚いて、薪を焚いて、納めよったっていうだけの話や。あれは、葉っぱネチネチになるからね。さわるの嫌やったけど。そうゆう大きな葉っぱをとってきて乾燥して納める。小学校五年から中学のころ、昭和二十五年から二十九年頃やったやねーかなと思うけど。

桑畑は、今は山みたいになっとる。こんな所(とこ)ばっかやもんで。平地(ひらち)の畑はないで。当時椎茸がね。種菌を作った人が廿屋(ツヅヤ)地区に。いい菌を発見して。ほとんどの人がやってみえたぐらいやでね椎茸は。自分の山を伐ったり、他所(よそ)の山を借りて伐ったり、うちもだいぶやっとったんやけど。それは小学生から中学あたり。

親父について、朝はけっこう早く(はよ)からね。それこそ暗く(くろ)なるまで、行って(いきょう)たんやで。今のように遅く(おそ)行っては、早く(はよ)帰ってくることはしやへんで。冬なんかはとくに、山ばっかやわね。大きな木を出す人は道でも組んで作って出す人もあったし。一山買って出す人はそう(そ)ゆう(う)やつと、バーット馬橇(バソリ)で、馬に積んで引っ張ってね。出して。ほんでも今でもそうやけど。そんな便のいいとこばっかがあるわけやないで。機械でこんなこんなしてやってくようなことは、沢山(たんと)無い(ねえ)から(で)ね。奥のほうへ行くと勘定するとあわへんわね。いくらいい木でもなかなか。個人では木を馬で出すことはしやへんよ。自分達(た)で、そんなりに手で出すだけで。そらまあ高いとこの山は。原木のやつなんかは、椎茸に(ん)合うようにこんなやつ切って順番落として(おてえて)きたり。それこそ長いやつでザーット。落として(おといて)きたり。下のほうで伐るとか。その地域に合うやり方でそらやってきたんやけど。今はそんなに。山もっとる人もそりゃああるけど高い(たけー)所(とこ)なんて行って伐れやへん。けっこう残っとる所(とこ)あるわね、そうゆう木は。ほとんど山へ今行かへんで。

そりゃこの辺は松茸(まったけ)も人気よかったんやけど。松が枯れちゃったでね、赤松も。よお生えとった山を持っていた人(ひと)たち(んた)でも、今は山も行かへんわそら。高い(たけー)所(とこ)なんかいっても、はや(はえ)行くだけでくたびれちゃって。昔はよく(よお)生えとったでね。当たり前に登って行きょうたんやけど、今は生えとるか生えとらんかわからんっちくらいのもんやもんで、見に行かへんで。行く人はあるやろうけど昔ほど出んでね、今は。

そういう仕事をいやいやながらも、忙しいときは勤めながら、手伝っとったわ。

弁当

山へは、いっぺえ弁当持ったり、おにぎり持ったりなんやして行くんやけど、今のようにおかずはそうたいへんあるわけやねえもんで。それこそ漬けもんに、味噌なんかは玉味噌作ってね。昔はどこの家(うち)も玉味噌つくって。自分の囲炉裏の上にあげて、きれいかきたないかなんかわからん所にぶら下げて、乾燥させてね。そんな味噌をおかずに持ってって、焚火で焼いて食ったり。

あーゆう味噌をあーゆうとこで食うとまた。焼いて食うとまたうまい。火焚くもんでけっこうそんなんで温(ぬく)とうして、ちょっと焦げたとこなんか。葉っぱの上に、乗せたりやなんやかんやすれば、結構おかずになっちまうで。肉やそんなにあるわけやないし。貧乏(せーがね)な(え)家(うち)はそんなもんでしかおかずがなかったで。

漬物は家(うち)にいっぱいあるもんで。昔は大根。たいがいつけて、樽に2杯3杯とそれこそ漬けもんは。ほれから、味噌も作ってた(やりょおた)もんで。買うっていうことはなかったで。家(うち)で樽に味噌作ってやっとくと、上に染みてくるのが出てくるわね。それがタマリやでね。それ使ったりなんかしとったで。たけーやつはなかったけど。

昔やっぱ麦飯やったでね。今のような白米やのうて、麦をいれるのが当たり前やったで。わしら弁当持ってくにも、なるたけ白いとこよそって、弁当はそうふうやったね。白米炊くっちゅうことはなかったで、皆どこの家も一緒やったと思うけど。

田植えのお手伝い(てったい)してもらう人には、やっぱりご飯食べてもらわなあかんで、お櫃でご飯持ってって食べたりなんかちゅうことをしとったね。そうやってお手伝(おてってえ)してもらう(まう)時は、やはり白米だけの。せっかく来てもらうんやで。お櫃に盛ったりなんかしとったね。何杯でも食べれるように。そういうときは麦は入れなんだ。おかずも、持ってかなあかへんで。漬けもんだけちゅうわけにはいかへんで、それなりにその時のものを、工夫(かんこう)しとった。

食べ物

いいもんは食えなんだけど。ちくわでもなんでもやけど、そんな(そお)に毎日(めえにち)今のように、毎日(めーにち)食える品物やねえもんで。お正月かお盆か、豚でも牛でも当時そんな食べてってことなかったね。

まあ昔は鶏がおったもんで、家(うち)に。正月前やというと親父(おやじ)んたらが捌(サバ)いて、わしは子供時分やったで捌(サバ)かんかったけど。鶏が一番肉やったもんで。

卵を産むようにそれなりに下の小屋で飼って、卵を持って、川辺に集める所(とこ)があったで自転車で持っていったりね。川辺まで峠を越えてだいたい五キロやね。どーのくらいおったやろ。七十から八十はおったと。初めはバラで、平地(ひらち)で、それからあのケージちゅうかな。

サンマ安かったでね。昔ね。しょっちゅうサンマを買って。今は高い(たけー)けど、サンマなかなか食べれんけど。今のようにガスコンロでこんな一匹を長いやつというわけにはいかへんで。くるっとまわして丸く(まるう)して、こう尻尾を目玉(めっくりだま)へ。通して(とえーて)。七輪というやつで焼いて。そう(そ)やって(やって)食べてた(たべよおた)ね(ね)。

行商の人は川辺のほうから来とったね。スーパーなんかないもんでそうゆう人から。そこにタバコ屋やとか酒屋。二軒ばか店はあったけど、そう(そ)ゆう(う)とこでそら買うもん買っとったんやな。野菜なんか買わへんで、家にそれなりにあるやつを食べとるとゆうことやで。どうでもこれ食べてえ、あれ食べてえってことはないで。

楽しみ

どこの家もね、むちゃくちゃに余裕はなかったと思うんやけど。ほんでもなんとか皆(みんな)、過ごして(すごいて)きとるでのお。それで暮らせたんやね。

たくさん(たんと)使うこともなかったし。冷蔵庫、テレビ買うわけでもねえし。昔はラジオがピーピーいいながら、静かーに聞いとったでね。五時四十分からやら六時頃になると、ラジオの連続ドラマがあるで聞いとった。子供向けの番組があったよ。夕方なると十五分か、二十分かしらんやるドラマを。時代劇かなんかやったかな、三太物語かなんとか。結構、楽しみにしとったような時があったような気がするな。テレビがないでね。

遊びは野球もやっとったよ、テニスボールで。小学校時分は軟球は使えへんで、そうゆうのでやっとったり。まあそれらしい遊びは、野球しかなかったくらいやないかな。

パンコもやったよ。丸い奴でこうやって。ひっくり返して、そいつを取ったり。そうゆうのをやっとったよ。取られてばっかおって。今はそうゆう遊びはねえわね。女の子はゴム飛び。輪ゴムかなんかあんなようなやつをこうやってとんだりね。今の子はちっともやらんけど。そんなやつを結構やっとったね。

遠くには行かん。バスがないで、自転車ばっかやもんで、外へ行くことはほとんどなかったね。うちのオフクロの在所は、可児市の「土田(どた)」っていうとこやった。ここから歩いて川辺の駅まで行って、ほれから汽車に乗って太田へ行って、駅前ずーと歩いて、渡し舟が出とったで、川を渡ったところがおフクロの在所やったもんで。船乗って在所にいきよった。今の太田の中山道会館にあそこに前進座っていう、劇場があったわ。劇場の下から渡しが。鉄線が、だーと、一本引っ張ったって、そいつで船をやって、流れちゃうで、流れるとこやもんで、そんなんで漕いで、渡って。木曽川やもんで、ほらやっぱり犬山や羽島とは流れが違う。今は、船頭がおらへんで無くなったけど、ライン下りやってたで。

昔は青年団がね、大勢おったで戦後。一年にいっぺんか二年にいっぺんかしれんけど、よう芝居をやっとったわね。わしもいっぺん、小学校二、三年かなんやしゃんの時、子役で出たこともあるんやけど。そうゆう芝居をやってました、青年団がね。

映画でも回ってきよったけど。外ばっかやもんねで映画は、小学校のグランドで映画をやったり。廿屋(ツヅヤ)の方行くと、他所(よそ)の家の角で映画をやったり。それを結構見に行きようたんやね。昔は母物映画とかああゆうやつが多かったね。もう(まあ)おらへん三益愛子とか、ああゆう人が出たやつを結構、そうゆうやつか新しい何本かあるもんで。子供ながら涙を出して(だいて)みとったことがある。

それと、幻(ゲン)燈(トウ)会(カイ)って言ってね、映画は動くけど幻(ゲン)燈(トウ)は動かへんもんで、今でゆう写真がぱーっと映る、スライドで。子供の物語はどうか忘れたけども、そう(そ)ゆう(い)やつを順番で、また続きでやっていって、回ってくる。鹿塩(カシオ)のお寺でやったりするもんで、まあ皆(みんな)、ツーツーツーと、夜歩いて見に行ったり。こっちの、川浦(カウラ)のなんたらの辺でやるもんで、そこまで歩いてね、見に行った覚えがある。絵だけ。やる人がちょっと文句つけてね。活弁士みたいに、ダーと、やるっていうわけやなしにね。紙芝居みたいなもんや。物語で。昭和二十二、三年頃やないやろうかなぁ。ただやったか、お金が要ったか覚えやないけど、ほんのちょこっとやわなぁそら。みんなでトートートートーと歩いて。

キャンディー売りは来よったわね。アイスキャンデー あれらは遅まで、それこそ、ちりんちりんちりん。夏は冷凍庫に、アイスキャンデー、こうゆう長いヤツや。それを夏はチリンチリン。売りに来たわね。直ぐ(じっ)に(き)食べて(すんでま)し(う)まうんやけど、それ欲してな。そう高いもんやなかったけど、ああいうやつもなかなか買えん時(どき)もあったでなやっぱり。

今は今なりに楽しいこともあるかも知らんけど、またえれえこともあるわな。昔は金の心配はしやへんなんだけど、子供の時分は。ほら今のほうがえらいわな。お金ないとあかへんし。まあ、わしらえらい時期(とこ)済んだけど。何年もねえもんで。二十年も十年もあらへんで。まあ平均年齢すぎちゃった。

思い

学校なくなると、困るけど子供おらんことには、うーん、「ふうぜんのともしび」やなと思うけど。まあ子供が増えるちゅうことは考えられへんで。ま遠いことやないと思う。学校がなくなるのも。子供おらんことには、あかんやっちゃもんで。

どこでも小学校あってこそ、それぞれの地域はやね、まとまって。中学はいいけど小学校だけはやっぱ。小学校がなくなると、その地域は終わりになると思う。やっぱ小学校が一番大事やね。街中でも小学校なくなるとこがあるんやけど、年寄りばっかになってまう。はやなっとるんやで。

WRITER

さとやまシューレ

写真:黒元 雅史(STUDIO crossing)

Posted: 2022.03.31

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