千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 大矢 碩郎さん】

遊びながら、お手伝いしながら
色んなことを子どもは覚えた

Posted: 2021.03.10

INTERVIEW

「聞き書き」は、インタビューや聞き取り調査とは違い、語り手の口調を一字一句そのままに書き起こしています。過疎化が進み、かつてあたりまえに営まれてきた里山での暮らしの知恵や技術が失われつつある中で、地域の人々の記憶を通じて、自然とともに生きる知恵や生活の哲学を学びます。

家(うち)の手伝い

色々思い出しよったけど、全部思い出すわけやないけど、子どもの頃っちゅうのは、だいたい小学校の4年生くらいになると、もう家(うち)の手伝いしなかんかった。そいで学校から帰ってくりゃあ、早(はよ)うカバン置いといて、「畑(はた)へ来い」「田んぼ来い」ってかっこうで、草引きから当然田植えなんかを、早うもう手伝わされて。で、家(うち)の方(ほう)やと、お風呂の水汲みなぁ。今の水道みたいあらへんで、川からバケツで水汲んで来(こ)ならんで。裏に川あるもんやでな。他所(よそ)の人んたは井戸水を汲んで風呂入れたり。俺んとこは川が近くにあるもんで、川からバケツで汲んできて、風呂桶入れて、ってな仕事をだいたい4年生ぐらいから手伝いやな。体のでかい子は、はい3年生くらいからやるわ。やけど俺は小さかったもんで、だいたい4年生ぐらいからやな。

風呂って言ったって「へそ風呂」ってやつで、木の桶に一人入るくらいの。で、金(かね)の焚口、お釜と一体となって、内側に出とるわけや、ぼこんと。そこに焚き木を入れて燃やす。これも子供の仕事や。風呂はそんな今のようにどんどんと湯、使えぇへん。大勢入らならん。それ一杯沸かすと、そいつで追い炊きはするけど、そう水足して追い焚きなんてできへんもんで。そいつでみんな入るんやでな。大勢、多い時には7人も8人もおると、それ一つで大勢入るやり方やもんでな。

それから5年生ぐらいになると、今度、山から焚き木を採って来(こ)んなんで。で、木を出す仕事とか、山に作ってある焚き木を縛ったやつがあるもんやで、それを負い、出してやったり。それから焚き木でもこんくらい(直径30cmくらい)に伐った束(たば)がようけ作ってあったもんやで、そいつを子どもんたが、背負子(しょいこ)があるもんで、背板(せいた)ってやつやけど、背負子にだいたい二束ぐらいずつ担いで運び出す仕事を手伝ったり。他所のやつを手伝うと駄賃をくだれよったわ。そんなようなふうで、焚き木も全部自分とこで作るやら。中学校になると、今度は山の木を伐らっせるやつを、焚き木がいるもんで、枯れた松とか、木を大人が伐ったやつを引きずり出す仕事をだいたい中学生は手伝よったなあ。

 

草履(ぞうり)から靴へ

子どもの頃、履物は草履やしな。藁(わら)草履。正月になると下駄が買ってもらえるんや。草履は自分たで作るんやで。だいたい3年生か4年生になると学校でも教えようざったんや。家(うち)から藁を叩いたやつを持ってくんや。で、学校行くと先生が縄のない方、それから草履の作り方、足に引っ掛けちょって編んでくんやけど、そいつを先生が教えてくだれよった。図工の時間に。で、そいつを履いて。家(うち)のお爺さんたが作らっせるやつはカンカンに締まっちょるけど、俺んたがやったやつは締まっちょらんもんやで、早(はよ)うのうなっちまう(無くなっちまう)、履いちょると。そいつで学校へも行きよったし、家(うち)で遊ぶ時もその草履やし。足の裏は固くなって、ほとんど草履みたいんは、履いちょるんやら履いちょらんやら分からん。裸足で摺(ず)っとるようなもんやで。学校の運動会でも、今のような運動靴あらへんのやで。で、途中で運動足袋つうのうが出てきたけど、(それまでは)裸足やで。裸足で走りょぅったんやで。で、運動会の前の日に学校の子どもんた全部で運動場の石拾いじゃわ。

で、中学行くようになったら靴が出てきたんかなあ。小学校の高学年から出てきたんかも分からん。戦後にあぁいう靴が出てきたで。飛行機の輪のチューブな。あいつで作った靴が出るようになったで。ほで、裏はペランペランなやっちゃけど、痛無いわな、草履より。そういうやつが出てきて、まあ草履作らんようになったんやな。それでも下駄は履きよったで。盆と正月ぐらいに下駄買ってくだれよったでな。中学になったら、下駄でも歯を換える。自分たで板で歯を作って。挟むやつ。そういうやつ履いて歩きょうったな。足駄(あしだ)って言ようったけどな。下駄でも普通の一枚の木から歯まで付ける下駄と、歯だけ換えれるやつがあったで。今のやつは歯まで一枚でやっちゃるのや。やけどあれ、勘考(かんこう)させたんやな。歯だけ換えるってやっちゃもんで。上手にな、横から挿すようになっちょったわ。やけど、俺んたはそんなことできへんもんやで、上から釘打って履いて歩きょうったけど。

着るものは小学校へ上がる頃は、おおかた洋服があったな。家(うち)で遊ぶときは着物やぞ。着物で遊んじょったで。着物も家で作ったやつやわ。学校行く時は、服着てって、ええやっちゃもんやで「汚すじゃないぞ」、「破らかすじゃないぞっ」てってぇな、言われて。家(うち)ぃ来ると着物きて一年生の頃は、そういうやつに着替えて遊びょうったで。

 

遊びは山と川

遊びはほとんど山やわな。山で戦争ごっこやとか、チャンバラやとかな。駆けずり回って、ようあんな草履で山、遊んじょりょったと思うが。今思うと、焚き木を取りに行くもんやで道がついとんのやな。人が歩くもんやで道ができて、そこをずっと上がって来(こ)よったんやなと思うんやけど。コケ(キノコ)の出る頃になると子どもは山へ行っちゃあかんのや。他所の山も境も知らへんもんやで、コケ採るとあかんでな。10月の中頃からコケが出るもんやで、そうなると子供は遊びに行っちゃあかんのや。

戦争ごっこってのは石のぶつけ合いとかな。そりゃもうとにかく戦争時分からずぅっと育っとる人やもんやで、喧嘩はいつもかもやで。この坂越すと、三和(みわ)の廿屋(つづや)っちゅうとこやわ。この部落でも、だいたい子どもが30人かそこらおりょうったでな。で、廿屋の人んたも開山忌とかがあるちゅうと見に来(き)よったで、こっちに。ぼってって(追ってって)、石のぶつけ合いやで。ほで、俺んた、一文坂(いちもんざか)までぼってくと、今度向こうが一文坂からこっちへ石ぶってよこすんや。その他は「釘サシ」とか、そういうような遊びばっかやったな。

水遊びの水泳ってやつは、3年生まではここら辺で遊んどらなかんかった。そういう決まりを上級生が決めておったんやな。ここら、こんな小さい川やもんで、川で遊ばす(遊ぼう)と思っても水が溜まるように石積みしなかんやら。石積んで、そこに今のようなビニールあらへんで、草を持ってきて並べたり土砂を乗せたりっというような仕事をやらんことには、まず水遊びができんのやで。自分たでやってからやないと。石の組み方も全部上級生が教えるもんやで。こうやって、ここはこうやってって。小さいうちから石の組み方も教えてもらった。

4年生になると池があるもんやでな、こっから2キロくらい先に追洞(おいぼら)の溜池が。大きい。そこへ上級生が連れてくんやわ。そこへ行って、上級生が泳ぎ方を教えてくれる。それまではここらへんの川でチョボチョボと腹の付くようなとこで遊んじょったけども。その溜池は深いもんやで、一本か二本、枯れ木が浮かべちゃるんや。掴まって、チャバチャバ、チャバチャバとやるやつを上級生が教えてくれて、「こっから先は行くやないぞっ」とかっていうようなことになっちょって、そうやって掴まって初めて泳ぎを教えてもらう。まず始めは池へ連れてって上級生がドバドバッと、「あばばこかせる」んや、いっぺん。溺れさせることを「あばばこかせる」っていうんや、この辺(へん)では。そうやって水に慣らせて、泳ぎ方から始まって。夏休みはずっと、家(うち)で手伝いのない限り、昼間の2時か3時頃なると、まあ戻れって指示が出よったもんやで。時計があるわけやないけど、お日様がどこや知らんまで行くと帰れみたいなふうの。

遊び道具を作るのは、凧は当たり前やろ。それから竹馬、コマやら、木刀作ったりな。小学校の上級生になると鎌(かま)や鉈(なた)、鋸(のこぎり)なんてのは上手に使わならんで。そういうもの使って、山で伐って来て。ええ(良い)刃物あらへんのやわ、あの頃やもんやで。金物ほとんど戦争で、供出(きょうしゅつ)で出(だ)いちまっとるもんやで。鎌や包丁も材料が良うないもんやで。じっきに(すぐに)切れんようになっちまったりなんかしようる。で、そういうものを砥(と)がんならんで。砥石で砥ぐことも子どもの頃から教えてもらうわな。草刈りに行くにも鎌、砥いでから行かんならんし。だから結構そいういうことで遊びながら、お手伝いしながら色んなことを子どもは覚えたな。

 

米と麦

夏は米、冬は麦。麦でも大麦と小麦とあってな。大麦は自分た食べるやつ。小麦はウドンに代えなんのや。製麺所があってな。ここで言うと関也(せきや)っちゅう部落にも一軒あったし、本郷(ほんごう)には桜井さん、三和の川浦(かわうら)にもあって、そこへ小麦を一升、二升持ってくと、ウドン何把(わ)か換えてくだれる。製麺所で交換してもらうのや。小麦と。それがあるもんやで、それ(小麦)をどんだけか作らんなんもんやでな。

麦踏(むぎふみ)てってな、子どもの仕事やったが、2月か3月に麦踏まなんのや。そこでも藁草履や。冷(つ)べったいに。藁草履でターッと踏んで歩かなんのや。大麦ってやつは、俺んたん頃は伸ばさなんもんやで。ペタンと。農協が圧扁(あっぺん)麦は作ってくれよぅったんやな。加工所があって作ってくれる。大麦はこっちで食べなんもんやで、いっぺん搗精(とうせい)をして、ペタッと伸ばいてもらって。そうすると押し麦になるんや。そいつを食べてかなんもんやで。麦ご飯やで。そいつがだいたい7割、米が3割。ウドンは時々やったな。そんなにたくさん採れるもんやないもんやでな。

それから米搗(つ)きは、この部落やったら、ここの公民館の横に動力でやるようなやつがあった。そいつでやりょうった。その以前の俺んたの子どもん頃は、家(うち)ん中に、地(じ)べたに石臼が埋めてあって、そこに米入れて、トーントンと搗くやつが作っちゃる。石の杵がこっちで足で踏むとヒュッと上がって、離すとトンとなるやつ。水車小屋もあったけど、水車小屋は水量が少ない時とかは使えんやら。そういうやつでだいぶ搗かなんやった。これも子どもんたの仕事や。先に付けてある石の重いやつやと、踏んでも上がらへんのや。ほんで棒があったもんやで、掴まってやるやつが。そいつに思いっきりやらんと上がらんなんて、小さい頃からそういうやつを踏みょぅったわな。大人の人やと片足で踏んでパタンパタンとやれるんやけど、子どもんた全体重かけても上がらん。小さい子どもんたが二人でやらなんやった。そんなことして米を搗いて。初めの頃は、ホント小さい頃はそんなふうやったな。それから今の動力の搗く精米機が来たもんやでやりょうったけど。

稲作りは苗田(なえだ)で苗作ってな。種まいて、田植えは結い方式で、手間替えってやっちゃ。近所の奥様方を頼んで。「今日3人来(き)とくんさい」「明日5人来とくんさい」なんて頼んで。今日あそこ、こっちってって順番で田植えしたもんやな。子どもんたも手伝わなんもんやで、田植えは。向こうとこっちに上手な人がおって、紐張って植えてかなんのや。真ん中でケボケボと植えちょると、ピンと跳ねくってくるもんやで、紐がピシャっとなる。

草取りはガラガラってって、手で押すやつがあった。それが一番草用と二番草用と二つあったんや。一番草はガリガリ回るやつが二つ付いたやつ。そいつは土が一緒にコレンとひっくり返るやっちゃ。そいつは押すだけってやっちゃ。そいつが一番草用。二番草、三番草用は引っかけて、爪が付いとって、行ったり来たりさせる。一番草用、二番草用って決まっとったもんやでな。こいつは高学年にならなできなんだな。力がいるもんやで。

今はそりゃ、田んぼに水を入れるにも、どっかで一つちゃんとやれば水が来るようになっちょるけど、その頃は始めっから石組みを造って水路に水入れなんらんやろ。いっぺん雨が降ると、ダーッ流れてと行っちまうで、またやらなんやろ。全部人力やで。川に杭打って、止めちょいても水が出るとダーッと行っちまうんやわ。杭打っといて、そこへ藁とか草とか止めて、水路を造らなかんのや。そうやらんと水が行かんようなっちまうで。四六時中水が入るようにすると、冬でも水が入ってちまうで、冬はそれ外しておかんなんやろ。今はちょっと行って板をペタッとやるとか、こういうやつでできるけど。

秋の刈り取りも田植えの時と同じ様に人を頼んでやった。7から10段のハザ掛けで乾燥して脱穀は足踏みの機会で行った。

 

牛も馬も家族

どの家(うち)にも牛か馬がおりょぅったんや。農耕の。馬はこの部落では一軒飼っておざったかなぁ。あとは牛。家(うち)の中で飼っとったでな、牛も馬も。家族と一緒やで。家(うち)ん中やで。俺んとこで言(ゆ)うなら、今そこが玄関入ってそれやら。ここんとこが馬屋(まや)やったでな。で牛も人間も同(おんな)じ所から出入りするんやで。そういう造りやったで、もうほとんどの家(うち)が。田んぼへ引っ張ってって。牛の世話も、水汲んで来てやらならんしな。今は樋(とい)みたいなやつで、ダーッと流すだけやけど、当時はバケツで汲んで来てやらんならんやら。そいつの餌も刈って来なんしな。ひごって竹籠(たけかご)があって、そいつにいっぱい刈って来(こ)なんやったんや。鎌で刈って、そこ入れて、山羊(やぎ)や緬羊(めんよう)も飼っとったで、背負(しょ)ってぇな持って来よったんやけど。毎日やらなかんもんやで順番順番のうなるわな。田んぼや畑の畔草(あぜくさ)やわ。それも子どもの仕事やったな。

昭和32、3年なると、耕転機やテーラーってゆうやつが出て、そいつで田畑を起こせるようになったもんやで、牛や手で起こすことは少なくなってきた。それまでは跳ねて起こすやつ、グッと刺(さ)いて、プッと跳ねる、今でも一台あるはずやが、そういう機械で起こすか、或いは備中(びっちゅう)(鍬(ぐわ))で起こすか。そういう作業やったやつが、テーラーってやつが出てきて、そいつの後ろにリヤカーをくっ付けてダーッと行って、外(はず)して、そいつで田んぼを起こしたり、畑(はた)を起こしたりってなことをするようになって、だいぶ楽になってきて。トラクター、俺んとこの部落入ってきたのは何年くらいやったろうなあ、45、6年かなあ。もっと遅かったかもしれん。耕運機ってやつがあって後ろついて行くやつや、ダッダッダと耕しながら。その耕運機ってのは、ほとんど酪農組合とか、そういうとろこが買って、頼んで起こしてもらうと、いうようなやり方をしよったんやけど。

 

山と生きる

山に虎杖(イタドリ)生えるやろ。腹減っちまうで、学校の帰りに食って来(こ)ならんで、新聞紙のような紙に塩を包んでな、ポケット入れて。で、学校の帰りにそれを付けてな食ったり、道端に生えとるスイスイバっていう、あいつも塩つけて食って。ほら学校帰りはまあ、みんな腹減っとるもんやで、我先に採って食べんならん。そういう食べ物を、とにかく何でもかんでも山にあるもん、道端にあるもん、畑(はた)にあるもんも、よその持ち主が決まったやつは採っちゃかんけど、山にあるやつは、ほとんど木に登って採らなん。今のようなガムはないけど、ホヤモウチって言ったが、モウチの木。そういうのが松の木に、宿り木のように生えるのやわ。そいつを上(うえ)あがってって、採って来(こ)なんのやわ。それを、こういう粒があるもんやで、ブツブツの。そいつをみんな口ん中入れて噛んじょると、多少甘いし、ガムのようになるんやわ。そんなやつを採りに行かならんしな。木登りはしよったな、みんな。

山はほとんど焚き木やで。冬のうちに伐っといて、それを一年中焚くだけ。葉(は)が生えたやつはもうあかんもんやで、葉っぱが出ん冬のうちに全部切り倒して、枝は枝で縛り、大きい太い方は太い方で割り木にしなかんやら。割り木の運び出しはほとんど子どもの仕事やったぞ。斧でパーンパンと割らなんで。割り木は今、パシャっと割る機械があって、健康の森でも作ってござるもんで見たことあるやろうけど、あいつを人力でやりょうったんやでな。輪っか(タガ)は今売っちょるやつとちっとも変わらへん。大きさも昔と変わらんなぁ、ありゃぁ。薪はほとんど、カシ、楢(なら)、何でもや。自家用と販売用に手あたり次第薪にした。

そうこうするうちに、今度は椎茸をやるようになって。正眼寺(しょうげんじ)の老師が椎茸をやるよう教えさせたもんやで、みんなチョッチョっとやるようになって、椎茸の原木がいるようになった。そういうやつをやって、椎茸の菌を三和で作るようにならしたもんやで、だいぶこっちでも山の木を伐ってやるようになった。ただ終戦なったら、今度は焚き木とか、どこやかで被災しとるもんやでな、家(うち)作らならんやろ。で、材木が必要やったんや。ほんでこの辺の山、ほとんど裸山になっちまった時もあったわ。みんな伐っちまうもんやで。伐って、建築材料、それから炭の材料、それから今の焚き木。そんなようにして、どこの山も裸山になってまって。で、松茸が生えるようになったのもだいぶ後で、残してあった山、松茸が生えるとか言って、木を伐らんようにしてあったとこのだけは生えたけど、ほとんど下のほうは木、伐っちっまたもんやで、裸山多かった。蜂屋、山之上の近所行くちゅうと、開墾しちまって、そこで芋作ったりなんかしよったわな。ここらへんでは開墾までしとるとこは少なかったけど。現金収入が無いもんやで、ちったなんか無けなかんってことで、サツマイモや焚き木を売ったりな。

 

WRITER

酒向 一旭(さこう・かずあき)

昭和59年生まれ。岐阜県美濃加茂市蜂屋町出身。民間企業退職後平成22年より美濃加茂市役所にて勤務。現在はまちづくり課にて古民家活用や山村振興等の業務に携わるる。自身も空き家をリノベーションして居住し、耕作放棄や里山を活用したイベント等を主催している。

文: 酒向 一旭、写真:黒元 雅史(STUDIO crossing)

Posted: 2021.03.10

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