千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 井上 正秋さん】

四季折々の 山や野のめぐみを
味わいながら 生きてきた

Posted: 2021.03.10

INTERVIEW

「聞き書き」は、インタビューや聞き取り調査とは違い、語り手の口調を一字一句そのままに書き起こしています。過疎化が進み、かつてあたりまえに営まれてきた里山での暮らしの知恵や技術が失われつつある中で、地域の人々の記憶を通じて、自然とともに生きる知恵や生活の哲学を学びます。

食べ物

これまでどう生きて来たっていうと、まずは、食べ物が大事でしょ、食べなきゃ生きてこれんから。こういう里山ちゅうか田舎に住んでると、いろんなめぐみがあってね。山や野のめぐみを味わうというか、四季折々の味があったね。里山っていうのは上手に利用すれば、いろんな食材に使えるんやね。ただ単純にご飯と漬物だけではなしに、四季折々の恵まれた山野の幸を使って、一年を過ごしてきたちゅうか。

たとえば、春やとタケノコとかね。混ぜご飯にすることが多かったね。子供の頃は、タケノコご飯とか、フキのご飯とかね。もちろん、タケノコのおかずもあったし、フキのおかずもあったけど、春はそういった食事が多かったね。タラの芽とかね、ああいうのを食材に使ったり、色々あるでね。ほれからワラビ、タケノコとかの山菜を、山菜おこわ(もち米ご飯)っていってね、おこわめしにするんや。

田植えのときにはね、ちょうど3時頃かな、「朴葉餅(ほおばもち)」っていう朴葉に包んだあん入り餅やけど、田植えのおやつにしてたね。朴葉は裏山で採って来て、お袋とか女の衆が作っといて、田植えやからって。朝からやってると腹減っちゃうんでね、3時のおやつにみんなで食べた。一番の楽しみやったね。昼には、「朴葉寿司(ほおばずし)」で、朴葉の葉っぱを使うっていう、そういう山のめぐみもあったね。

夏になるとね、ほとんど自給自足で、いろんな野菜がいっぱいあったわね。毎日メニューは変わって、特に、私が好きだったのは、キュウリの酢の物ね。今は、キュウリの酢の物の中にタコなんか入れるけど、昔はそんなの無かったから、キュウリだけが多かったね。ただ、ワカメが時々入ることがあったの。それは福井の方から、行商で女の人が、ワカメとかヒジキとか干物を担いで売りに来てくれたの。で、その時に買っておいたワカメを酢の物に入れてくれたと思うよ。

農協にはうどんを作る工場があって、うどんやソーメンも美味しかったね。ソーメンなんか、大きな樽の様な容器に冷たい水を入れてね、その中にソーメンを入れ、家族皆で掬(すく)て食べたね。トウモロコシや甘芯(あましん)(サトウキビ)も親父が作ってくれて、友達と噛んだね。親は子供のおやつになるようなものも栽培しててくれたね。

そして、夏野菜なんでもあったから、ニンジンやレンコン、いろんな野菜を入れた「チラシ寿司」も、昔は無かったけど、今はマスやサケなんかを入れた「マス寿司」もあるね。寿司っていうと、4月の祭りの時は、押し寿司ってあったね。寿司めしの上に乗るのは、桜の型には桜色のでんぷや、ジャコの佃煮をのせた型はなんだったかなーちょっと忘れたけど、そんな押し寿司もあったね。

それから、秋になりゃもちろん、「栗ゴアイ」と言って栗入り赤飯とか、松茸ごはん。松茸は今は高級になったけど、子どもの頃は、うちの山で松茸がすごく採れたんです。親に「松茸採りについてこい」と言われてついて行ったけど、子供でも探せるくらいいっぱい、あっちにもこっちにも生えてて、いっぱい採れた。持っていった小せい籠も入りきらんもんで、着ていたジャンパーを脱いで、袋の様にして、その中にもいっぱい入れて持って来たこともあったね。そんで、うちの土間いっぱいに並べ、親父がその中でつぼみのいいものとか、形のいいものとかは、農協に出荷した。そんで、傘の欠けたり、傷ついたような松茸を、うちで松茸ご飯にして食った。味ご飯では、大根飯もあるし、ぶつ切りのサンマを入れたサンマ飯なんかも、混ぜご飯はずいぶん子供の頃あったね。

自然のものでは、椎茸だってあるでしょ。昔は親父が、原木を池に沈めて、原木椎茸も作ってたね。今もうちで食うだけは、毎年裏山で原木を切って作っているし、コンニャク芋も植え、コンニャクも作ってる。自分とこで作ったコンニャクって美味しいもんやね。そんな食材も味ご飯の具になってるね。季節で食べられるものってほんと美味しいよ、その時期その時期しかないっていうのは。

今はガスやけど、昔は土やタイルでできたくどってあって、上に鍋をかけて、割木や木の葉で火を炊いて、ご馳走を作ったわけね。くどにも神様がいて、物をどこで紛失したのか、どこに置き忘れたのか、見つからない時に、くどの煙突に藁で縛って、「どうぞ見つかりますように」と祈願した。見つかったら縛った藁を解いてたこともあったね。

元旦のくどの最初に火を入れるのは、一家の主(あるじ)が入れる。「今年も硬く真面目で、まめで元気で頑張れますように」って、「硬く」は硬い樫の木の葉と、「まめで」の大豆の茎を干した豆木(まめぎ)で火を焚いたの。若水(わかみず)っていって、その年の恵方の方から水を汲んで来て、雑煮に使い、そんなことで一年が一家の主から始まる。そんな風習があって、私もずーとやったんです。今は台所も改築して、やってないけどね。年が明けると元旦には、今でもやってるんですけど「まめでくりくり、かきとるように」ってね。黒豆の煮たので「まめ」で、「くり」は栗、「かき」は干し柿で、あとは、昆布。それから最後に仕上げにみかんを食べて、朝はお雑煮の前に、それをいただいて、やっぱ今年も一年、まめで元気に頑張れますようにっていう、おまじないみたいなもんでね。そんなことをやってきたね。

正月にはお雑煮しますけど、私のちっちゃい頃から、毎年そうやったんですけど、どういう訳か雑煮に「削りかつお」と「砂糖」をかけて食うの。その砂糖も、普通の「白砂糖」とかたまりを削った「黒砂糖」、そして黄色ぽい砂糖の「中ザラ」この三色(みいろ)が、それぞれ砂糖鉢に入ってて、自分の好きなだけ雑煮にかけて食うっていう、この地域だけかも知れんね。女房たちは削りかつおだけで食べてた。どうしても私は、いまだに砂糖かけて食べてるね。

 

奥様

私は、お嫁に来て五十年、「えー どういうこと」って砂糖鉢を見て、びっくりしました。私の実家の方では、削りかつおをかけるだけで、このうちに来たらドーンと砂糖が出てまして。「お正月の雑煮にお砂糖をかける」と、ご近所でお話すると、ご近所も皆さんもそうみたい。

砂糖といえば、裏に土蔵があるんやけどけど、その中に大きな砂糖鉢あってね、白砂糖、黒砂糖、中ざらと三鉢あったんや。子供の頃、悪いことすると、その蔵の中に入れらとったの。で、それもだんだん慣れてきて、ある日、その砂糖鉢を頭にきたのか床に叩きつけて割っちゃったの。蔵の中じゅう砂糖と鉢の破片で大変なことになって、それからは蔵には入れられることは無かったね。

正月なる前の大年(おおとし)の日にはね、年越し蕎麦でなくて、年越し料理っていうのがあって、「それを全部食わないと年越せない」と言われて、夕食に、豆腐、ニンジン、ゴボウ、大根、里芋、昆布等を一緒にぐっと煮た料理でね。それにイワシの焼いたのと、それを一通り食べて、年越しをしてきた。そんな風習もあって、今でも毎年、続けて食べてるけどね、最近は、女房の打った手打ち蕎麦は、昼に食べてるね。

あんまりタンパク源が、今んところ無いでしょ、そんで、子供の頃にヤギを一頭飼ってた。ヤギを柿の木とかに繋いでおきゃ、周りの草食ってた。そんで、夕方になると小屋に入れて乳を搾ってね。牛乳じゃなくて、ヤギの乳を毎日飲んでたの。ほら牛乳飲んでるのと同じだわね。ヤギは、(伊深のあたりでは)飼ってるところと、飼ってないところがあったけど。ヤギの乳は、結構身体のためになったと思うよ。乳搾りを自分もやったけど、最初はなかなか上手くいかなんだけど、だんだん、上手に搾れるようになったね。そういうのも子供の頃にはやったね。

それから、タンパクっていうと、鶏。うちは鶏をね、たくさん飼ってたの。300羽だったか500羽だったかなー。農協の飼育番付やちゅうて、大関くらい飼ってたの。その当時は「ケージ」っちゅう飼育器に、1羽ずつ入れて、1番から番号が付いてた。卵を産むと、取りやすいように前に転がってきてた。小学校から帰ると、仕事があってね。記録帳に、卵を産んでる鶏の番号をチェックして、卵を集める仕事があった。その記録を見て、親父は産まなくなった鶏をつぶして、鶏肉も時々食べたね。今は、すき焼きっちゃあ牛肉が定番になってるけど、その頃は、牛肉じゃなくて鶏肉のすき焼きやったね。

 

子供の頃

小学校の頃は、結構、家の手伝いがあったんよ。やっぱり手伝わなあかんかった。小学生でも忙しかったんだよ。
今は、窓はサッシになってるけど、その頃は雨戸で、毎日雨戸を閉めとったねぇ。学校から帰ると鶏の産卵チェック、卵集め、そして雨戸閉めの仕事があった。
田植えの時期は、苗取りの仕事があったねぇ。苗田ちゅう苗を作る田んぼがあって、そこへ入(はぇ)って、苗を取る役。小学校の高学年の頃だったと思うけど、本当にえらかった。その晩は、足、腰に痛みがきて、まともに上を向いて寝れんかったね。

秋に手伝うのは、稲刈と、刈って束ねたものを稲架(はざ)下まで運ぶ仕事で。今は、コンバインで刈り取ってるでしょう。その頃は、もちろん手刈りで、稲架は、縦に12段作ってたね。その稲架の下まで一輪車で運んで、そして、稲架の高い所は、そこに登っている親父を目がけて、下から放り投げてやる、親父はそれをパッとつかんで稲架に掛ける。そんな仕事もあったね。脱穀は一か所でしてたんで、稲架にのぼって、脱穀してる所めがけて稲束を投げおろす仕事も、脱穀してる親父の手元に稲束を一つずつ取ってやる仕事もあったね。

冬の仕事は、田畑の仕事は無いから、山に行って割木(わるき)作りだね。親父が木を伐って、それを割木サイズに切って、割る。その割った木を、私が束ねる針金の輪っぱに、詰め込んで、仕上げはカンカンと打ち込んで、割木の束を作る仕事をさせられた、そんで、山から下りるときには、大八車にいっぱい載せた割木を運ぶ手伝いで、親父が大八車のかじをとり、私はそこんところにロープをつけてもらって引っぱる仕事、山道はデコボコになってるから、結構、力がいって大変やったね。

親父が割木を作っている間は、私の小遣い稼ぎで、紙の原料になるガンピの木を採りに、周りの山に行くんです。その木の皮を剥いて干しておくと、その頃は「ガンピないかねー」って買いに来る人がいて、買ってもらった。そのお金が、私の小遣いになってね。遊びの道具を買うお金になったの。当時は、川で魚を捕まえる「追い込み網」とか、「魚獲りビン」があって、そういうのを買ったね。ビンにはうちの地味噌(ぢみそ)を入れて、魚の通り道にそれを仕掛け、魚が入ったら出られんようなそういう仕組みになっとる。他にも「捨てバリ」て言って、ドジョウを捕まえてきて、切って、それを針に刺して餌にする。そんな「捨てバリ」を川の堤防の石積みの間の様な所に放り込んでおくと、ウナギがかかる、結構、獲れたょ。そんな針も買ったね。魚釣りもやって、前の川でもたくさん釣れた。ムツとか、シロハエ、シロハエが大きくなったオイカや,ムツが大きくなったアカムツと獲れて、おふくろが甘露煮にしてくれたね。

それから、鳥を獲る「カスミ網」も買ったね。今は、そんな網で獲ることは禁止になってるけどね。山に網を張って野鳥を獲って、鳥は焼き鳥にして食ったね。そんな遊び道具を買うのに、一生懸命小遣い稼ぎしましたね。それも山や川のめぐみやったね。

他に子供の頃の遊びちゅうと、チャンバラとかねぇ。カチン玉とかね、パンコと言う遊びがあったね。カチン玉ていうのは、小さいガラス玉で、順番に相手の玉目がけて、こんなふうに投げ、カチンと当ったらその玉がもらえるんや。カチン玉を買うのにもやっぱりお金がいるしね。パンコは、厚紙に絵が書いてある札の様なもんで、大小のバンコがあってね、相手のパンコのそばに叩きつけるように投げて、相手のパンコがひっくり返ったら、そのパンコがもらえるんや。子供なりにどうしたら勝てるか考えたね。パンコは上着のボタンをはずして、風を呼んでひっくり返せないか、カチン玉は、どの角度で投げたら当るのか、チャンパラは上段を切る格好をして足を切る。そんな勝つために色々考えたわけ。

山なんかを駆けずり回ったりなんかすることは好いとったし、山でカスミ網を張るにも、川で魚獲りのビンや、捨て針を仕掛けるにも、獲物がかかりやすい場所はどこがええのか、いろいろ遊びの中にも、子供なりに工夫するわね。遊びに一生懸命で、学校の勉強よりもそういう工夫をしとったね。テレビがあんまり無かった頃からずっときたでしょ、やっと普及し始めて、一番最初は、近所に無いもんで、富加に「テンジン桑」と言って、八百屋か駄菓子屋の様な、お蚕の桑の葉っぱも扱う店があったの、そこにテレビがあって、小遣いあんまりなかったけど、5円で小ちゃいスルメが買えて。そんでそのスルメを買って、長く噛みながらテレビを見させてもらったの。今日は「月光仮面」があるから、今日は「赤胴鈴之助」があるからと、その番組の時間帯に行って見せてもらっていたの。そんな遊びもあったけどね。いろんな遊びはちょっと卒業して、中学生になったら、部活と勉強になったけどね。

子供の頃にはね、分団の子供会があって、小学生から中学生までで、その子供達だけで、毎年、道路腋の則(のり)に大豆を蒔いてね、秋に大豆を収穫し、公民館前の広場で脱穀して、そんで、それを豆腐屋さんに売りに行ってた。その売上金で子供会の行事の運営費にしてたの。親になるべく負担をかけないようにって。子供達みんなよう働きよったね。子供会の発表会では、歌を歌ったり、私もよくやったけど手づくりの紙芝居とか、寸劇もやって楽しんで貰ったね。夏の行事では、お化け屋敷で、上級生が仕切って、お墓へ行くとか、お宮へ行くとか、暗い場所だったので、小さい子は怖がりましたね。コンニャクをペタッと顔に付けたり、タオルを振ってお化けに見せたり、結構面白かったね。

秋には、山に山神様が祀ってあって、子供達だけで掃除をして、そこにお参りに行く、「山の子の勧進(かんじん)」と大きな声で叫びながら。そして当元の家に帰って食事を頂くんだけど、よくサンマの煮たのがおかずに出よった。その頃はサンマ一匹は出なんでね。頭の方か尾の方半分やったね。「席に着け」と言うと、みんな尾の方を目がけて席に着いた。尾の方が身が多くあると思ったんやね。そんな子供会の行事も、年上、年下の役割があって、伝統的に毎年やってた。年上は、下の子の面倒も見たね。楽しいちゅうか、責任もあったよね。

子供の頃のおやつて言うと、サツマイモを蒸して、切って干した「切り干し芋」とか、大豆を鉄板の鍋焼器でばあちゃんが炒って、それを砂糖で丸めたものとか。餅ついた時に、小さく切って、鍋焼器で炒って砂糖で丸めたあられとか、お米の米選機下に落ちた、チョット選別した悪いお米を「ポンはざし」したものとか。年2回くらい「ポンはざし」の機械をもって商売に来る人がおったの。干し柿もあったね。今でもうちでは干し柿を作っているけどね。こんな四季の山や野のめぐみも味わって成長してきたよね。あんまりいいもの食べてないから背は伸びなんだけどね。そんな子供の頃やったね。

 

百姓

お米作りは18の時からずーとやって来たね。その当時は、田んぼを人に貸してあげて、自分ところで2反程作った。やけど、それでも変だったよ。今の様に、トラックターやコンバインは無かって、耕運機だけやったからね。田んぼ中を駆けずり回って、自分たちの食うだけのコメは作った。(田起こし、代すり、田植え、稲刈、はざ架け、天日干し、脱穀)

最初の年に、見よう見まねで、縦に12段のはざを作ったの。大変なんやね、そのはざ作るの。で、作ったけど、台風が来て倒れちゃってね。どうしたらよいか、じいさんに聞いたら、なぜあかんかったかっていうと、はざに妻梁(つまばり)を入れずに作っちゃったの。じいさんは、「山で股になるような木を4、5本伐ってきて、べったり倒れたはざ1段づつ、股の木をつかって隙間を作り、稲わらを引き抜くしかないな」と言われて。まったく手間がかかったけど、全部引き抜いて、もう一回はざを作り直したの。本当に嫌になっちゃったね。そんで、はざ作りに絶対必要なのは妻梁を入れることを教わったね。それからは妻梁を入れる様になって、倒れる事は無かったね。

そして2、3年経ったら、ハイベスターていう移動しながら脱穀する農機具ができて、12段のはざは作らんでもようなった。3段はざになったね。3段ならだれでもちょっと手でかけられるし、機械化で、徐々に我が家の耕作面積も5反位に増やしたの。

今は、百姓専門で、貸してた田んぼも帰ってきて、田んぼは7反位作って、残りは休耕してます。お米の余った分は売ってるけどね。私が勤めていた時は、女房は畑に色んな野菜を作り、自給自足でしたね。おかげさまで、田んぼや畑があったから、ひもじい思いもせずに、生きてこられたと思うよ。

 

伊深ごはん

野の物、山の物を、普段自分たちが食ってるようなものです。これは栗の「渋皮煮」と、さつま芋が入ってる「おにまん」です。今ね、栗がいっぱい獲れる時でね、食べてください。これも山や野の、めぐみやね。ちょっとブランデーが入ってるけど、こんな料理も、昔からあったね。ただ、昔はブランデーなんか無かったんで、砂糖で煮ただけのものやったね。でも、うちの孫には昔の味のやつを食べさせてるけどね。さつま芋もうちで獲れたものです。さつま芋は切り干し芋にも使うけど、孫たちが大好きで、毎年沢山作ってるんです。

奥様

栗があるうちは毎年作るんです。そうたくさん栗のある家は無いんやけど、もう十分食べられるくらい、6キロくらい作りますね。毎年あげる方もいるんで、今の時期の栗は、甘いですね。それぞれ各家庭で味は違いますね。主人は、甘口が好きみたいですね。

 

WRITER

相原 美彩(あいはら・みさ)

東京都青梅市出身。令和2年度岐阜県立森林文化アカデミー入学。

文: 相原 美彩、写真:黒元 雅史(STUDIO crossing)

Posted: 2021.03.10

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