千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 古田 忠さん】

父から引き継ぐ山仕事~稲・茶・野菜も作ります~

自己紹介

 古田忠です。生年月日は昭和6年11月、今年で92歳になったよ。住んでいるのは、岐阜県東白川村の神土(かんど)の親田(おやだ)ってとこやね。8人兄弟の3番目で、上に姉2人、僕のすぐ下は男2人、その下は女3人。男では長男。昭和35年に7歳下の女房と結婚して、2人で住んどる。子どもがおらんかったもんで、弟の息子を養子にもらって、その子が結婚して3人の孫ができたとこよ。

少年時代

 昔は家の近くまで車の通れる道がなかったもんで、※神土尋常高等小学校(現在の東白川中学校)まで歩いて通った。学校帰りに畑入って他人様の柿をとって食べたり、雪の降った時なんかは雪合戦やったりして。夏の場合は学校帰りに先生に隠れて、友達と川で水泳をしていたね。わんぱくしとる。
 昔は今住んでいるとこから400メートルくらい上にある家におったんやけど、僕が小学6年生の時に火災で丸焼けになっちゃった。田んぼに藁が置いてあった近くで、3男たちと寒いって火をたいたんや。1月の16日頃の西風が強い時で、藁稲架(はざ)に火がついちゃって、家が燃えちゃった。その頃は家の中に牛と犬が1匹ずつおってね、厩の入り口は西にあったもんだから逃げるとこがなくて、焼け死んじゃった。
 小学6年生の頃には、小学校が国民学校になったわ。中学校がなくて、小学校6年、高等科が2年。高2年で卒業して、その時には15歳になってたね。
※神土尋常高等小学校は昭和16年に神土国民学校に改称し、昭和22年に東白川村立神土小学校に改称。昭和55年統合により廃校。

稲作方法の変遷

 僕が子どもの頃は牛を使って田んぼを掘ったりしとった。田起こしの時には犂(すき)棒というものを、ロープをつけて牛が引っ張っていく。犂棒が土をすくい上げて、左側にパッと返すように作ってあるんや。掘った後は水を入れてかき混ぜる。レーキ(「馬鍬(まぐわ)」ともいう。熊手のようなもの)で代掻きをするんやね。それから平らに直して稲の苗を植える。だから昔は家の中に牛を飼うのが当たり前で、牛小屋が家の中にあったんや。今と違って、草刈りをして、その草を牛に食べさせるという仕事も必要で、1日に大きな竹かご2杯分の草を手で刈らないかんもんで大変やった。田んぼの耕し方は、僕が小学5年生の時に、2つ上のいとこと一緒にお手伝いをして、おじいさんに教えてもらったわけよ。ただ、おじいさんがやったのは田んぼを牛で耕すだけで、後は女の人みんなで田植えまでしてたね。
 火事で牛が死んじゃった後はもうできんようになったね。近くの人に頼んで耕してもらった。その後耕運機というものが出てきた。
 同じように犂があって、それをエンジンの動力で動かす。掘ったとこを車輪が回って土をつぶしてったわな。手で持って押していった。
 今はもうトラクターやね。でももう老齢で危ないからやめた。

馬鍬

稲作

 ここら辺は小さい谷から水をわけて田んぼを作っとるのやね。火災の後、今の家に来た時は、急傾斜で一番場の悪いとこに田んぼが作ってあったんや。下の谷が見えるほどで、1アールくらいの田んぼが50枚ぐらいあった。その頃はもう小さい田んぼで、水を入れてもすぐ溢れ出ちゃうもんで、田んぼの周りにあぜ道を作らなきゃいかんかった。やけど、基盤整備(圃場整備)ちゅうものを村をあげてやって、5枚で30アールくらいの大きな田んぼになったし、絶対水漏れしなくなった。その後、村の方で道路を作った時の残土を持ってきて、田んぼを埋めて改良した。そうしたもんで、さらに5枚から4枚になっちゃった。

お茶の栽培

 昭和39年頃、山仕事も農業もやってた頃に、高くてええということでお茶の栽培を始めたんやね。村としても、お茶を作って広めようかというようなことで、全村のあちこちで開拓連合(全国開拓農業協同組合連合会)ができた。うちは家の裏山を開墾して茶畑を作ったよ。
 苗は取り木栽培。お茶の木から生えとる枝をまげて、途中の元の埋まっとる部分から根が出てくる。傷をつけるとそこから根が出るもんで早い。1年たった時に5、6センチくらいのところで苗を切って、別のところに移植するわけや。
 お茶の葉っぱは竹で作ったかごに摘む。摘んだ生葉は60センチぐらいの大きな鍋に出して蒸すわけやね。水は入れずに、鉄板で焼くって感じやね。焦げないように、木で作った大きいへらで混ぜながら。で、ええ頃になった時に出して、夕方に手でもむ。そしてそれを、1メートル80から90センチの「筵(むしろ)」に出して、干して乾燥させるんや。
 お茶の栽培を始めた頃くらいに、仲間4人で茶園を開墾して、共同茶園を作ったね。共同茶園は、今の東白川製材工場がある辺りで20年ばかりやって、解散したんや。その後は1年か2年やってたけど、とても1人じゃ無理で。家の裏にあった茶畑も、今じゃ木(ヒノキ)が植わっとる。

父から引き継ぐ山仕事

 山仕事を始めた一番最初は、18歳頃や。村有林の、伐採前の立木調査や。毎木(まいぼく)調査っちゅうけど。これを僕の親父さんがやったもんでお手伝いしたのが始まりやな。指導を受けてね。20歳頃には薪づくりもやって伐採を始めたわ。山で薪を切って「木馬(きんま)」で道路まで出してきたわ。その頃には炭を焼く窯を作って、木炭を焼くのもお手伝いした。それから、22歳頃かな、下刈りといって、植林地に生えとる雑木や草を草刈り機で切って手入れ、管理をすることもやったよ。
 うちの親父が役場で村有林の管理を75歳までやっとったわけ。その前に村の親戚の人なんかが、「忠、もう親父が可哀想やで代わってやれや」と言ってきた。僕は「頭もないしダメや、役場なんて入れん」って断りょうったけど、昭和50年、44歳ぐらいの時に役場に入って、村有林の管理を始めたわけやな。親父の後継ぎや。ほんとに商業として山に入るようになったのはこの頃からやな。
 役場では総務課に入って、植林や伐採などの村有林管理をしとったね。村の予算があって、そのうちに占める木の収入が決まったら、予算を立てて年度内に木を何本切るかとかの計画を決めるわけや。作業員の人が4、5人くらいみえて、その人たちに伐採とかをやってもらった。その人たちとのお付き合いが主やったなあ。一番面積の多いところは親田の新巣山で、400ヘクタールくらいあったな。切った材木は、製材の方に入札して買ってもらった。村で「よし」となるとその人と契約して材を渡すっちゅうことや。森林組合の市ができてからはそっちへ出すようになっとるけど、個人は1回くらい出しただけやった。

若い頃の古田さん。右は木馬。

木材の搬出

 山仕事は、最初、僕の親父と一緒に、山で切った木材を搬出するところから始めた。
 木材搬出は、今はキャタピラで動く重機に積んで出してるけど、昔は「修羅(すら、しら)」や木馬という方法でやっていたよ。
 昔からやっとるのは、修羅という方法やな。山で切った材木を、皮をむいた状態で斜面に真ん中にくぼみができるように並べ、そこに材木を滑らかして運ぶ方法や。下の方を下げて、そうめん流しのようにするわけ。山のくぼみや谷間に沿って、横幅が細い木を中央に、太い木を左右の端に縦に並べる。そうすると、お椀状になるわけやな。で、一本一本の木も太い方と細い方とあるもんで、細い方を前にして、太い方を後ろにすると坂ができる。縦に並べた丸太の下に、横に丸太を入れて高さを調節することもあるよ。こうして縦に伸ばしていって、目的地の集積場所まで伸ばす。距離は山によって違うけど、まあ測りゃあ大体わかるもんで。途中で特別段差があると、ストンっとなって抵抗がかかるで、できるだけまっすぐの方がええ。速度を落とす時は、あえてそういうとこを作るけどね。材木で作った修羅の上に水をかけると、丸太が滑りやすくなる。バケツに水をくんで、柄杓(ひしゃく)でパッパッパと、そんだけで木材が下へデーッと滑っていくんやね。コツは、パッと伏せてたたきつけるように水をかけること。そうすると、パーンと水が散って、広く全体にかかり、真ん中の一番滑りやすいところがいい感じに水に濡れたようになる。まあ修羅は親父の手伝いが主やったで少なかったな。
 もう1つもっと古い話でいうと、100年以上前にうちのおじいさんや親父がやってた時は、平らで水があるところに木材で壁を作って、ダムみたいなものを作ったわけよ。「鉄砲出し(せきだし)」ってやつやけど。木材の間には水苔をつめて谷川の水を溜まらせて。水をせき止めると、水面が上がってきて流れ落ちるくらいになるもんで、水に浮かばせておいた木材が浮き上がってきて、上がったやつを下に出す。そこに修羅を作ると、高さによっては遠いところまでデーッと滑っていく。
 木馬は50年も前くらいにやり始めて、役場に入るまでの5、6年間くらいやってたな。やり方は、今でいう列車のレールみたいなものを作って、そこを木馬で出すということや。山の平らなとこは「盤木(ばんぎ)」、枕木やな、木を30センチくらいの間隔で埋める。枕木を30回、40回くらいでいいかな。材木をそりみたいな木馬に積んで、盤木の上を滑らかして木を搬出したわけや。平らなとこは滑りやすいように菜種油をひく。勾配が急なところは危ないから、積んだ材木の中から1本長く出したやつにワイヤーロープを巻いて、もう一方を生えてる木に巻きつけてブレーキをかけるんや。ワイヤーを手で持って、つかんどれば木馬は止まっとるし、ゆるめれば前へ進んでくる。坂道、車でブレーキを踏むのと一緒やね。積んだ材木の小口に「かすがい」っていうコの字形の金属を打ち込むとしっかりする。木馬は1人で積む人もいるけど、まあ2人でやった方がいいね。弟ともやったし、他の人ともやったよ。
 木馬の後は、ロープウェイみたいに山に架線を張って、材木を下ろすやり方もしたかな。
 最近はもうキャタピラの機械やね。僕は使ったことないし家にもないけど、そういう時代になったね。

「東白川村誌 通史編」より

今の仕事と物思い

 今の仕事は、奥さんのご指導を受けて野菜作りをやっとるわ。今作っている作物は、大根、かぶら、サツマイモ、サトイモ、なす、白菜とかかな。少しやけど、自然薯も作っとる。昔は田んぼのあぜに大豆を植えとった。大豆は畑で今も作っとるよ。
 水田は草刈り機で草刈りや。田植えは田植え機で植えてもらうし、耕すのもみのりの里(農作業を受託する会社)でやってもらう。腰や両足が悪いので山で仕事をすることもできないし。高齢者で時々フラフラするもんで気をつけんと。2、3回、草刈りながら転がったわ(笑)。
 僕は子どもがなかったもんで、弟の子を養子にもらっとるわけやね。その子もよくやってくれるし、色々気をつかってくれるもんで、今はまあ幸せやね。ただ、脚が痛いやつで困っとる。そして、この頃耳が遠くなったのも、1つ嫌やなあと思っとる。

今の林業について

 最近は材木が安くなって、ちょっと上がってるけど、先日、森林組合設立50周年の記念市というものがあって、そこに材木を出したら高く売れた。それから、直径56センチの材木が稀に見る高値で売れた。おじいさんと親父さんと、僕と3代続いて育てて樹齢100年になっとるわ。
 時代が変わり、チェンソーで木材伐採するのは変わらないけど、村の若い人が伐採搬出していることが変わったことだね。要するに、1人で全部できるわけや。出す場合はキャタピラのついたトラックで山をはんでいく(這っていく)し、積むにもエンジンがついとって木材を引き上げてくれる。僕は今年も56センチの大きな木材を出したんやけども、1人で切って搬出までできたわ。
 それから今は大きな面積に生えとる木材を全部切り倒すことなく間伐して山を守る。以前は家の裏の木をいっぺんに切ってしまったりしたでな。後のこともあるし木を残さないかんし、水の関係もあるし。色々利点はあるということやね。
 やけど、今の若い人たちは山仕事なんかやっとれへんことが多いね。実際に家の息子んたもそうやが、田んぼや山なんか持っとっても仕方ないわという考えが多いわね。どっか行って働けば金がとれるという世の中やもんで。
 今の時代は機械になってまったけど、機械も気をつけてやらんと怪我するで。キャタトラで怪我した人もあるし。機械は素直やもんで、よう考えて扱いをせんと絶対間違いが起きる。まあ92歳にもなると、こういう機械を使えたらいいなあと思うけど、やっぱり勘が悪くなってくるもんで、気をつけないかん。まあ若い人のいうことを聞いて、やらなきゃいかんね。そうやけど、若い人の話を聞いて、間違っとることの前には教えてやらんと。昔こうだったよ、というだけでも。全部を積極的にいうと、若い衆に嫌われちゃうで(笑)。

【聞き書きを終えての感想】

 古田さんは物腰柔らかな方で、話していると癒されるような方です。林業について話を伺おうと思っていたのですが、稲作にお茶の栽培、農業など多彩なお仕事内容で驚きました。特に印象深かったのは、木材搬出方法と稲作方法の変遷についてです。私が修羅を理解するのに時間がかかったため、確認に苦労しましたが、その分記憶に残っています。また、昔の稲作方法を理解するために、東白川村の「古いもの館」まで足を運び、実物を見ることができたのも心に残っています。
 私は東白川村出身で、村のかつての暮らしを知ろうと思い、聞き書きに参加しました。後で知ったのですが、私の祖父と古田さんは役場で一緒に働いていたことがあるらしく、祖父、父も手伝ってくれて心強かったです。編集は大変でしたが、昔の暮らしについて知れたこと、何より古田さんとお話できたこと、嬉しく思っています。故郷東白川村の歴史についてもっと知りたいと思ったし、家族など身近な人の昔話も聞いてみたいと思いました。貴重な経験、本当にありがとうございました。

PROFILE

古田 忠(ふるた ただし)さん

出身地は岐阜県東白川村。神土尋常高等小学校に6年生まで通い、国民学校に変わった後高等科2年を卒業。父親の林業を手伝う傍ら、稲作や農業、お茶の栽培を行う。昭和50年4月に東白川村役場の総務課職員となり、村有林管理を担当、平成4年に退職。緑化事業に関して複数の表彰を受けている。

取材日:2023年11月11日、12月25日

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