【聞き書き 佐伯 矩さん】
人生を表す

自己紹介
佐伯矩、昭和6年3月生まれ、94歳、今は次男坊と奥さんと3人暮らしや。わしの生まれは名古屋市の熱田区で、育ちの覚えがあるのは、名古屋市の矢場町っちゅうところや。中学生まではそこに住んどった。小間物屋(こまものや)を辞めてから塾の先生をして、ほれからそろばんを集めるようになって、今はそろばんの博物館をやっとる。
小学校時代
小学校の時は、戦争に勝つための「露営(ろえい)の歌」っちゅう軍歌を毎日学校帰りに歌わされよって、若宮八幡社っちゅうところでお祈りをしとったんや。ほんでわしが5年生くらいか、戦争が始まったわけ。壁やらにポスターが貼られるようになって、男は兵隊に連れて行かれるようになったんや。国を守ることを誇りとして、兵隊を志願したり特攻隊に憧れていく子もおった。
戦争が激しくなる前は平和な時代やったんやね。やけど今のような生活やなかったんや。ご飯屋さんなんてそこらへんにはそうあれへんよ。6年生までによその店で食べさせてもらったことがなかった。たまたまうちの近くに松坂屋へ惣菜を納めとったとこがあったわ。メンチカツとか色々あったけど、安いコロッケしか食べたことがなかった。鯨(くじら)の肉が安かったかわからんが、鯨はよく食べさせてもらった。ほやけど牛肉なんかは年に1回だけやったわ。名古屋市は酪農とかもなかったし、正月だけの贅沢品やった。
中学校時代
中学1、2年生の時に学徒動員されたの。高射砲っちゅう大砲の弾が空中で爆発するためのタイマーを作っとったわけ。
戦争が激しなって空襲警報が鳴ると防空壕へ入っとったやら。当時は、防空壕や火消し用の防火用水を貯める空き地を掘るのに、わしらみたいな学生が使われよった。防空壕いったとて、ただ掘って屋根に竹張って藁やって土被せてあるだけやが。空き地を掘って防火用水を貯めるのに粘土で壁を作ると水が漏れんもんで、名古屋市の猫ヶ洞(ねこがほら)っていうところから粘土を運んで来たんや。大変や、ずーっと歩いてこなかんもん。軍事の方に使っちゃうし、コンクリートなんてない時代やでな。ほんで軍の方から食料の配給があったの。今は、大豆のしぼったカスなんかは豚の餌やら、それが与えられよったの。米なんて無いで、作業する時は袋へ入れて弁当代わりに持っていきょったわ。
初めのうちはわしらの工場は小さいで、爆撃はされなんだんや。仕事はサボりょうるし、友達と喋って楽しかったんやけど、そのうち激しなってわしらの工場もやられ出したんや。近くの工場へ爆弾が落ちると、土で作ってあるだけやもんでバラバラっと壊れたり、また直撃くらったら死んじまうやら。怖かって。それで住んどった場所も焼け出されて、父親が人に貸しとった、川辺町にある在所(下麻生(しもあそう))に帰ってきたんや。
自然災害と国内状況
中学生の時、大きな地震があったわ。液状化現象っちって、地下の水が地震で揺すられて上へ上がってくる。わしらの工場は埋立地やったで道路が水浸しよ。帰っとると町はひどいもんやったわ。平屋は倒れて、2階建てなんかは斜めっとったり潰れとった。
岐阜が空襲で焼けた時も蔵なんかはわりかし燃えとらんけど、電信棒(電信柱)も木やったで全部燃えて無くなったんよ。
終戦
うちの親父は名古屋市の軍事工場のお偉いさんとして働いとったもんで、終戦後に戦争犯罪人の一番下の罪になったんや。昭和25年に解除されたんやが、その後の3年間は公職追放っちゅうのになったんや。公のところへは就職できんっていう罪。戦争が終わってからは過酷やったで。貴重な米とかはそう食べさせてもらえんやら。お碗いっぱいくらいに大根の葉っぱを入れたり、そこらの草入れてかさ増やして食べよったの。そんなもんやでシャビシャビやら。やけどそれもええほうやったんやわ。
うちのお袋なんかは着物をよそへ持ってって、食べ物と変えてもらっとったな。土地を持っとるとこは野菜なんか育てられるでええけど、無いとこは着るもんも無くなっちまうで。んで、戦争に日本が負けたもんで、その日からは神様や仏様は拝まへん。最後は必ず日本は勝てるって信じとったのに、毎日お参りしとったわしらからすれば騙されたって思うわな。
就職
終戦後は食糧難で、ご飯食べさせてもらえやええっちゅうことで、京都の小間物屋へ就職したわけ。くしやかんざし、ピン留め、鬢付(びんつ)け油(あぶら)とかね、化粧品以外の若い女性が使うようなもんを売っとったの。ほいやもんで昔は若い女の子に人気があって、よお人が来よったわ。その当時、半月働いて100円もらったの。それで何が食えるって十分な食事はあらへんでね。玉ねぎを半分煮て食べるだけや。
仕事は朝7時~夜7時まで働かされよった。それも1日と15日の月に2日しか休みがなかったんや。その休みもや、遊びに行こうとしたら店の親父が「おいちょっと、それやってって、それから行け」とかね。休みも無かったくらいや。やもんで遊びに行く時は、こそーっと親父に見つからんように逃げてかんと働かされよった。
その親父と飯のことで喧嘩して、「お前ら一人や二人おらんでもええわ」て言われたでそこを辞めたんや。
新たな就職先
ほんで、京都の麩屋町(ふやちょう)にある別の小間物屋に就いたんや。鴨川のあたりにお店があった。同業種やったで前の店からお得意をつけてやっとったんや。ほうしたら物がよお売れるから、給料をどんどん多くしてくれたんや。月に2000円、4000円、6000円ちってそんだけお得意増やしたんやら。店とは別のところに角部屋があって、5人で一緒に住んどったわけ。そこの親父の彼女がご飯作ってくれとったでそれを食べとったんや。最初のうちはさつまいも1個だけとかね、順番によおなって米も出てくるようになったわ。やけどここも月に2日しか休みがないやら。それが普通やったんや。洗濯も全然できん。服やらは休みの日に洗濯板使ってやるしかないもんで遊びに行く時間がなかったんや。
その店の親父がまた別の彼女作ったんや。わしがよお働いて儲かるおかげで彼女作れたと思って。ほんでそこも辞めて来たんや。
そろばんとの出会い
ほんで25、26歳の時に川辺町へ帰ってきて、古井町(こびちょう)にそろばん塾があったで、そこでそろばんを習いながら助手をやり始めたんや。初めのうちは上手に教えれんもんで生徒が減っちまって、そろばんとこの親父に食わしてもらっとった。そのうち教える事も上手くなってきて生徒も増えていったんや。この頃からそろばんを集め出したんや。
塾のそろばん講師として
自分でそろばん塾を作ろうとして、まずは下麻生に建てたんや。やけどまあ最初は儲からなんだんやわ。やもんでよその塾とは違ったことをせんならんと思った。それまではどこの塾でも既製品の問題を使っとったもんでね。うちの塾ならではの問題を作るようになったんや。そしてだんだん生徒が増えてきて七宗町神渕(ひちそうちょうかぶち)、白川町黒川とかにも塾を出したんや。やけども神渕は大変やったわ。ここからは遠いもんで電車とバスを乗り継いで行くと、行くたびにものすごい赤字やった。下麻生の塾が儲かっとったで、がんばればいけるわと思ってやり続けたわけ。
話し手が作成した実際の問題
優秀な生徒を生み出す
そろばんの東濃大会では、うちの生徒がたくさん賞をもらってきよったんや。よその塾の生徒は10人~20人大会に出しても賞をもらえるのは3~5人くらいやった。けど、うちの生徒は30人出したら賞に入らんのは3人くらいや。そのくらい力をつけさせたんや。そうすると評判がええでどんどん生徒が入ってくるやら。下麻生の近所の小学校でも、家に帰る前に塾でそろばんして帰るっちゅうそろばん分団ができて、ぞろーっとうちへ来とったわ。神渕や黒川でも同じようにそろばん分団ができたんや。大勢やもんで、そのくらい繁盛しとったわ。
整った設備と体制
生徒が多なりゃ金は増えるで、最終的に塾は7箇所やっとったわ。多い時は合わせて650人くらいの生徒がおったでね。加茂郡でやってないところは東白川村と坂祝町(さかほぎちょう)だけや。あとはみんな、うちが経営した塾があった。よその塾の先生は今で言うパートの助手やったけど、うちは二人専門で雇っとったんや。朝から晩まで働いて、給料も退職金もボーナスも払ったりちゃんと運営しとったよ。パートも使ったりしてね、上手く自分たちで回しとったんや。よその塾は絶対そんなことしとらへん。当時は高かった印刷機も3台持っとったでね。作った計算問題を印刷するのに必要やで、タイプライターも2台持っとったし。ワープロの前はタイプライターやったで、ひとつひとつ打ってかなんらん。時間がかかるもんで朝から打ちよったわ。
確実に伸ばす教育方針
ある日、塾の裏で仕事しよった近所の人に「ええな、そろばんは夕方行くだけで儲かるで」って言われたけど、わしはうちがやっとる塾に朝から仕事へ行くやら。そうすると近所のみんなはびっくりしとったわ。よその塾の人は夕方の生徒が来る時間に来て、既製品の問題を解かせるだけや。遅くても19時くらいに帰るんや。けどうちは朝から晩までいろんな問題を作って子供たちに教えとったんや。
うちの方針は答えが合うまで、子供が理解するまでやらせるっちゅうやつや。試験は70パーセント合っとれば合格する。ほうやがわしの考えは、残りの30パーセントを今のままで満足するんやなくて、確実に上に伸ばすっちゅうことや。
うちの子は分かるまで教えるで、やっただけ上がるんや。試験の問題は100パーセント合っとったわ。よその子は問題を解くのは速いけど間違っとるわけや。そこの差なんや。少々解くのが遅くてもね、合っとればいいんや。間違えば解き直すのに倍の時間かかるし、余分な字を書かなかんやら。
生徒が多いで二人の専門の助手も忙しいわな、片方は分からん子に教える専門、もう片方はマルつける専門やな。パートもそれぞれやる事をやっとったわ。
試験は3級は70パーセント合っとればいいけど、2級は80パーセント合っとると合格なんや。階級は1級から10段まであって、うちは今まで8段が二人おる。5段の子は5、6人、3段ならザラにおるわ。
講師引退
わしは70歳の時に教える自信が無くなったで辞めたの。よその塾の人は儲かるでいつまでもやらっせるけど、やっぱり「ええ子供」を作るってなったら辞めなかん、そういう心理や。塾は7箇所を順番に閉めていったわ。
塾を閉めてからは、家の敷地にずっと集めよったそろばんを展示する博物館を作ったんや。無料で誰でも入れるようにしとる。凝り性やもんで、今は縦横足して合計が同じ数になる方陣とかを作っとるんや。3方陣、4方陣とかね。今はパソコンで計算ができちゃうで、何と何を足したらどの数値になるかを全部記録しとるんや。こんなことをしとるで今でも忙しいし楽しい。
塾講師引退後も計算、暗記物を作成
話し手がそろばんの珠で作成した作品
そろばんを収集した訳
何でそろばんを集めたかというと、やっぱりそろばんやっとったって証しが欲しいなと思って。わしの生きてきた人生を表したいんや。まずこんだけあれば捨てれんやら。どこもかしこもそろばんだらけやもん。世界中からかき集めたで。珠が全部違う種類のもの、翡翠(ひすい)の珠のもの、対面で使えるもの、オルゴール付き、視覚障害者用、金庫付き、デジタル機能付きとか数えれんね。
現代使われる機会が減ったそろばん
わしが思うのは、そろばんは必要やと思うの。6級まではとっといた方がいいと思う。計算の基礎やで。それ以上は必要ないけど、6級っていうと割り算の2桁やな、それくらいはせめてやらせると子供が楽すると思う。保育園くらいからやっとると生きるのが楽になるわ。
PROFILE
佐伯 矩(さえき ただす)さん
中学校を卒業後、京都の小間物屋に就職。その後、同業種に転職し、岐阜県美濃加茂市古井地区にあるそろばん塾に助手として就職。下麻生でそろばん塾を開業し、七宗町神渕地区、白川町黒川地区など合わせて7つの塾を開業。70歳までそろばん塾講師として活躍した。
取材日:2024年10月14日、2025年1月4日
