千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 牧田 幹三さん】

時代の変遷と共に歩む~養蚕から酪農、そして未来へ~

自己紹介

 私は、牧田幹三です。昭和6年5月に生まれて、93歳です。川辺町の比久見(ひくみ)で生まれました。3人兄弟の長男でした。農家をやっています。物心ついた頃から養蚕業をやっていて、その後酪農、そして野菜栽培などしてきました。

養蚕の仕事

 まず蚕を買ってきて、四角い薄い桶の中で、小さいうちから朝昼晩、餌の桑の葉を与えて育てる。大きくなってきたら、蚕は自分で格子状の入れ物の空間に入っていき、糸を吐いて繭を作って、その繭の中に入る。できた繭を回収して、出荷する。これが大体の仕事内容だね。やってることは単純でしょ。

養蚕業のための家

 私が住んでいるこの家は養蚕をするための家でね。生まれた時にはすでに養蚕をやっていたもんだから、蚕と寝たり起きたりしたもんです。
 「養蚕のため」っていうのは、この家は土壁が無くて、障子とかふすま、柱で区切られているんです。だから風通しが良くなっている。蚕を飼うために、鴨居作(かもいづく)りって言って、大きな松の木を使っている。人が住めるのは、キッチンと居間だけ。あとは、2階も全部、蚕が入れてあった。今はもう人が住めるようにリフォームしているけどね。玄関も、蚕の餌である桑の置き場だった。

空から撮影された幹三さんの自宅

養蚕の大変さ

 加茂郡でも、1位2位を争う養蚕家やった。蚕も300キロくらいかな、飼っていました。この当時、養蚕の右に出る産業はなかった。だからこそわしらは生きてこられた。でも固定資産税はかかるしで、楽な仕事では決してなかった。人手もたくさんいるしね。
 下麻生(しもあそう)に桑を摘むのを頼みに行くと、仲間を30人ぐらい引き連れてやってくれてた。蚕は桑しか食べないので、桑が足りんってなると、業者に頼んで愛知県の扶桑(ふそう)町から三輪車で運んできてくれよった。
 雨の日も雪の日も持ってこないといけないから、本当に大変やった。本当によく周りの人に助けてもらっていたと思うわ。
 飛行機も何も無かった時代やもんでね、物を運んだりするのも荷車やった。今の時代、何をやるにも機械使うでしょ。でも当時は、荷物を運んだりするのも全部手作業だから、今やろうと思ってもアルバイト数人集めたぐらいじゃできないと思う。養蚕は1年に3回、多い時は4回出荷していた。春、夏、寒くなった時期にも飼っていた。蚕は寒いのはだめやもんで、練炭を焚かないといけなかった。練炭っていうのは、炭を粘着剤を使ってレンコンみたいにしたやつね。これに火をつけておくと、一晩中暖かかった。でも、風通しが良かったから大丈夫やったけど、一酸化炭素が出るもんで酸欠になってしまったり、火事になってしまったりなど、かなりリスクはあった。うちは起きなかったけど、よく火事が起こっていたな。

養蚕の歴史

 3人兄弟の長男だったからね、親の仕事を引き継いで、一応百姓をやらないといけないかなって思っていました。養蚕業は、酪農や野菜栽培をやる前にやっていたことでね。
 わしらも含め比久見の人は、みな蚕をやっていた。川辺町でも特にわしらが住んでいるこの山間地帯って言えばいいかな、ここは畑が多いから、田んぼまで桑を植えて一生懸命やっていました。恵那蚕糸(えなさんし)から「種」を取って、そして養蚕をやっていた。養蚕業は、昔の花形だったもんでね。これでわしらはごはんを食べていたわけです。
 ここら辺で養蚕が栄えたのは、湿度が少なく養蚕をやるには最適やったからかな。おじいさんの代から養蚕を営んでいたので、一番多い時は家の中で寝られる所が無いくらい、外の小屋にもいっぱいで、階段の下で寝たりしたこともあった。
 古井(こび)の本郷町のほうに、グンゼ製糸の工場があって、そこで取引をしていました。「グンゼ製糸」というのは、蚕から糸を取り、絹の糸を作る会社の工場のことです。グンゼ製糸は日本中にあって、昔、美濃加茂市にもあった。養蚕が下火で勢いが衰えていてグンゼ製糸もどうもあまり良くないと思っていたら閉鎖してしまった。
 飛騨市の方にも、繭を扱う所があったけれど、昔は、みな養蚕家だったから、生産過剰になってしまうぐらいの規模だった。「グンゼ製糸」がやっているうちは、どれだけ作ってもいいと言われていた。
 日本の蚕は、からだが弱かった。繭を作る前に病気とかで死ぬこともあったから大変だった。糸の質は良かったんだけれどもね。それで、中国の品種と交配させて、交配種ばかり飼育していた。中国の品種は、病気にも強かった。原種も飼ってみたけれど、特徴があって、手作業で雄と雌とを分けていた。いろいろ勉強してみたけれど、試してきたことが良かったのか悪かったのか、分からなかったな。
 アメリカの方で、コストを抑えて安くできるものやナイロンが出てきて、日本の製糸業っていうのは廃れていったっていうことやな。例えば、絹の靴下はちょっと履けば破れてしまうけど、質は良かった。でも、ナイロン製の靴下は長いこと履けるってことで、耐久性っていう面でナイロンに負けてしまったってことやね。

次の職業に切り換えて

 昭和36年頃から養蚕から畜産に切り換えて、一番多い時で、20頭ぐらいかな、牛を飼っていた。岐阜県牛乳協会に出荷していて、その後は明治乳業に出荷していました。集乳所という所を作って、毎朝、比久見で集めてタンクローリーで持って行ってた。この辺りは、酪農やっている所も多くて、10軒ぐらいあったね。酪農も花形やったでね。酪農は、牛を買って子供の時から育てて、朝と晩に乳を絞って集乳所に集めて、そこでクーラーで冷やしといて持って行っていたね。
 乳牛から搾乳機で吸って乳を搾り取っていたけど、多い牛は40リットルぐらい採れとったな。乳を搾り切れずに残っちゃうと、そこに炎症が起きて「乳房炎」っていう病気になって大変やった。美濃加茂市にも保健所ができて、年に2回ぐらい予防注射や爪を切ってもらったり、勉強会開いてもらったりしてた。衛生に厳しなっていったもので、だんだんと酪農をしていくのが難しくなってきたけれど、養蚕をやめて牛を飼うことに腹決めて、鉄骨のハウス作ったりとかもした。なんとかしのいではこれた。岐阜県は酪農よりも肉牛が高い。立派な飛騨牛みたいな高級肉とかね。それから、学校給食を一生懸命やってくれるようになったので、学校給食が増えてきて「これはいいぞ」って思った。けど、ここら辺に住んでいる子に聞いてみたら、関牛乳を飲んどるって言っとって、想定より売れなかったもんで、経営が厳しくなってしまった。
 「美濃酪農連合組合」というところがこの辺りの酪農を仕切っていた。本当は入らないといけなかったんだけど、川辺町は入らず、明治乳業と直接取引をしていた。単価的にも、他と比べて良かったから、明治乳業と取引するようになったんだと思う。
 「乳脂肪」の値が高いとバターとか牛乳に適しているので、それによって値段が違っていた。ニュージャージーとかいろいろ品種はあるんやけど、「ホルスタイン」って言う、白黒の毛並の牛が乳脂肪が高いと言われていたから、比久見はみなホルスタインを飼ってた。今で言うトウモロコシとかを食べさせて乳脂肪を高くして、そうするとやっぱり良い品質の牛乳が取れたね。餌も一種類だけじゃいかないもんでね、バランスとって与えていました。時にはね、豆腐屋さんからおからをもらってきて与えたり、もやしなんかも与えたりした。生より一回乾燥させたほうが牛は喜んでいたね。牛は胃が4つあってね、まず、噛んで飲み込んで1つ目の胃に入って、それを戻して2回目を噛む。これを「反芻(はんすう)」って言うんだけど、これを繰り返して細かくしていく。トウモロコシの茎とかは硬いからすごく時間がかかっていたね。それに、上の歯が無いんだよ。牛は面白いよね。
 北海道や飛騨市みたいな寒い土地の方が良い品質の乳製品が作れたね。今でも、郡上市とか高山市はやっている所もあるし。夏はからだが弱ってきて病気にもなりやすいし、やっぱり他と比べるとあまり良い環境ではなかった。気温や湿度が高くなってきてね、牛を育てるのに向いている気象状況じゃ無くなってきた。
 ホルスタインも年を取ってくると、乳が出なくなってくる。そうなると、廃牛(はいぎゅう)って言って殺しちゃう。でも、ただ殺すだけじゃなくて、取れる肉は食用として取るもんで、屠殺場(とさつじょう)へ持って行ってもらう。それを食べるんだけど、普通の食用に育てている牛とは違ってね。例えば、飛騨牛は黒毛和牛って言って黒い毛をして良く肥えていて、1トンとか大きい牛になっていく。だから、いっぱい肉は取れるし油はあるしで、高級な肉が取れる。ホルスタインは白黒の毛並みで、乳を出す用の牛で、痩せちゃってるもんで、肉はあまり取れない。A5等級の中でも、油が無いもんでA1にもならないような肉しか取れなんだけどね。
 牛の寿命はあまり長くなくて、9年ぐらいは生きておった。ホルスタインの雌に、飛騨牛の精子を入れると、飛騨牛が生まれる。そんで、小さいうちに飛騨の方へ売る。子牛で売れて、向こうでいっぱい餌を食べて大きくなって、飛騨牛として売られる。だから、うちはやめる前は、種付けって言うんやけど、受精だけして子を産ましたらすぐ売っていた。結構利益にはなって、女の人でもやれるもんで、そうやって生計を立てている人もおるね。あとは、試しに鶏も飼ったりしてみたけど、うちで卵を消費するぐらいしかなかった。

当時、牛が管理されていた小屋

野菜栽培

 畜産をやめた後は、お米と野菜やね。カルビーのスナック菓子用のジャガイモを作らんかって言われて、でも1年か2年で辞めてしまったな。里芋と白菜、大根、あとかぶら。かぶらっていうのは、漬物にする赤いカブ。高山から2年ぐらい作ってくれんかって、農協を通じて連絡があったもんで。カルビーも農協からの紹介でね。

これから

 農業を守って欲しいと思っています。でも、誰でもできる仕事ではない。この仕事1本じゃ難しい人のほうが多いと思う。
 やりがいがある仕事だから、品種を変えるとか楽しんで欲しいね。果樹園をやっている人を見るとすごいなと思う。1年のほとんどを準備に費やして、秋にしか販売できないからね。若い人も少ないしね。もっと、若い人達が興味を持ってくれると嬉しいね。

PROFILE

牧田 幹三(まきた かんぞう)さん

川辺町比久見で生まれ育つ。幼少期から、先代から続く養蚕業を行う。その後養蚕業を行いながら、畜産業(酪農)を開始。牛乳を明治乳業へ出荷。その他にも、野菜栽培、水稲などを行う。現在は野菜を農協関係の直売所や道の駅などに出荷。

取材日:2024年12月15日、2025年3月16日

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