千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 今井 悦子さん】

東白川の〝すべて〟と共に生きる~地元の「おいしい」をお客様に~

自己紹介

 私は、今井悦子と言います。昭和25年12月生まれで、74歳です。生まれは、下呂市萩原で、小学1年生の時に上麻生(かみあそう)に渡ってきました。上麻生って言うと、白川町の岐阜市寄りにある七宗町のところだね。
 27歳の時に嫁いで、主人と主人の両親、忙しい時はお手伝いの方と谷口屋旅館の宿泊、宴席、仕出しを少しずつ慣らしながら手伝ってきました。子どもが5人、孫も5人いて、今は次男と2人で生活をしています。

旅館での一日

 お客様がいらっしゃる時は、夏は4時30分に起きて、6時ぐらいまで仕込みをして、6時30分くらいから朝ご飯の準備をするかな。朝は早く、夜も片付けて全部終わろうと思うと23時とか24時になる時があるからね。夏は4時くらいにはもう薄明るくて自然と目が覚めるから大丈夫なんだけど、冬はちょっとえらいかな。外は、真っ暗だからね。

50年前の谷口屋旅館

 交通事情もよくなくて、お客様は長期の仕事の宿泊や夏の鮎の友釣り解禁時には、東京方面から荷物を送って竿を持って、電車でお見えになっていました。当時は、景気も良くて慰安旅行を兼ねて釣りに見えたりね。小さい宿なので、満室になり、クーラーもない時代で、夜涼みに外に出られる方もいましたね。ホタルもいて、今思うと、風流な景色でしたね。

旅館の入り口

すべてがこだわりのご飯

 地元の方が作ってくださった野菜とかを使っています。それに慣れてしまったので。鮎にしても息子が釣りに行って、釣ってきてお出ししたり。自分たちで出来る範囲で地元の素材をそろえています。あとは、色のバランスとか、揚げ物ばっかりにならないように料理のバランスを考えています。基本的にそんなに食べられない物があれもこれもっていう方は少ないですが、初めての方はお聞きすると、たまにお肉が食べられないとか、野菜、トマトが嫌いな方もいるので、その時々に応じて、息子が対応しています。
 季節ごとの村の食材を出来るだけ使っています。春は、ふきのとうやタラの芽、筍などの山菜。夏は、トマトをスムージーにして、朝お出ししています。一日元気に過ごせますようにと。これは、自分で考えた物で、作ってみたらおいしかったの。でも、自分がおいしいと思っても、相手がおいしいとは限らない。けれども、料理を提供するところなので、まずは自分なり、息子なりが「おいしい」と思った物を提供しています。それでまた反応が色々とあるでしょうしね。好き嫌いとか、食事の味も薄かったり濃かったりとか。
 秋冬には煮込みという冠婚葬祭の時に作る郷土料理をお出しします。けんちん汁みたいな物です。その時々に切り方を工夫しています。煮込んで、野菜の味がしっかりしていておいしい一品です。
 お肉は、飛騨産の豚肉とか飛騨牛を使っています。下呂市萩原にお肉屋さんがあるので、そこから前は頂いていたんですけど、お肉屋さんが配達できなくなってからは、下呂市場を通じて配達していただいているので、新鮮です。
 出来るだけ地元の物で、出来ない物でも近くにある物で。ここら辺だと、お肉はちょっと無理…。そうかといって、猪肉は必ず入るとも限らないから。あとは、海の魚と地元の野菜を使って、例えばブリ大根とかを作っています。野菜は、畑をほんの少しやっているし、久須見(くすみ)という集落のトマト農家の方が出荷してくださり、とてもおいしくて、町から見える方も「おいしい」と喜んでくださいます。
 お米は自分たちで育てた物ではなく、村の大明神(だいみょうじん)っていう集落のお米を使っています。東白川のここら辺の田んぼのお米もおいしいお米なんですけど、多分、ちょっと刈り入れ時期が遅くて、米粒を握った感じが気持ち大きく感じるんです。
 うなぎは今はやってなくて、夏の土用の頃にお出ししています。宿泊の方へのご飯の時と、御食事だけのお客様へもお出しします。うなぎも今は、仕入れてこないと出来ないし、寒くなると、水が冷たくて死んじゃうんです。だから、飼っておけないので、冬は休んで、夏限定です。
 地元の食材だと、後は、豆腐、油揚げかな。井戸の水で衛生的に作られていて、献立のレパートリーが増しますね。
 観光の方は、朴葉味噌のご飯をお出ししていて、お仕事の方はご飯、お味噌汁、卵焼きだったり。連泊の方もいるので、それぞれに合わせてお出ししとるんです。お漬け物も手作りで、「おとしづけ」っていって、カブラと大根を一緒に漬け込むんです。

清流白川で育った鮎

 鮎は、ここら辺は飛騨川にダムがあるから、上がってこれないの。だから、大体5月の連休ぐらいから放流して、6月の第2土曜日ぐらいから解禁っていう感じかな。釣りの漁法も、去年までは友釣りっていって、おとり鮎を仕掛けて釣ってたんです。おとり鮎っていうのはお店に売ってて、ここの旅館でも売っているんですけど、生きている鮎のこと。それが、今年からはルアー釣りの許可が出るようになって、釣り方も変わってね。ただ、ルアーだと釣りにくいというか、「やっぱり友釣り」、「おとり鮎で釣った方が釣れるから」って。漁業組合としては、若い人が友釣りの人を見て「友釣りに変えようかな」って思ってくれるといいなって。
 息子も友釣りで釣ってきてくれるの。主人も釣りにいって、釣ってきた鮎をお泊まりの方とか、鮎料理だけを食べに見える方へ提供してきました。お客様との会話の中で「目の前にあるのは、息子が釣ってきたんだよ」っていうと、なんか鮎に対しての親近感が湧く感じで。それなりに忙しいんだけれども、そんな大勢のお泊まりはないから。例えば4人ならまず4匹は釣ってこなきゃいけないというような、覚悟をもって行かないといけない。釣れないと大変! ま、それでも釣れないっていうことはないからね。

改良を重ねた自家製手作り味噌

 昔からここら辺の人はお味噌も自分で作られているんです。それは、健康のこととかもあるし、お味噌もやっぱりお値段しっかりしているし。計算すると手間はかかるけど安く済むの。材料は物価が上がってきたんだけど、知れてるから。たまに、調合するときに市販の味噌を買うけど、いつも冷蔵庫に残ってます。
 味噌は2種類あって、1つめは地味噌っていうんです。麦麹(味噌)っていって、どちらかといえば赤い味噌。もう1つは、普通の麹味噌。これは豆と、甘酒とかお米から作る麹を混ぜた物を寝かせて作るんです。2種類作って、それぞれ1年ぐらい寝かせます。今、ちょうど1年目の味噌なんですけど、暑くてカビも生えやすいから気をつけて寝かせておくんです。そのお味噌の元になる麹の花は、地元の味噌の加工所に作ってもらうんです。そこでは、味噌の出荷もしています。うちみたいに麹の花だけ作ってもらって、自分のところで混ぜている人もいるし。味噌桶に入れて毎日混ぜて、春のお彼岸が過ぎた頃に、蓋をして冬まで寝かせます。
 何回も改良してきました。昔は、食塩で寝かせてたんだけど、減塩っていうふうになってきたので、粗塩っていうお塩を使ったり、重石(おもし)をきつくしてカビが生えないようにしたりとか。後は、麹味噌の場合は、豆と麹の割合を変えてみたり。麹を沢山にすると甘い味噌になるんです。朴葉味噌の場合は、辛いと食べにくいので、お砂糖を入れるんです。そうすると、お砂糖よりも麹の方が体にいいかなって思って、麹味噌を増やしたりして調節しました。多分、健康的だと思います。その中に煮干しをすり鉢で擦って、粉にして入れて、出汁代わりにみたいに。それも息子が工夫して、少しずつ改良してきました。
 30年くらい前に主人と飛騨のドライブインで初めて朴葉味噌を食べて。うちには、朴葉は庭にあって、手作り味噌もあって。「どんな味にしたらご飯にあうのかな」とか「コンロで焼いて焦げないようにするには」とか「味噌の上に乗せる野菜は季節感を感じられるような」って、何回も繰り返しながら朝ご飯の定番になっていきました。お客様も「家ではおかわりなんてしないけど、つい食べ過ぎちゃうね」と喜んでもらえます。
 昔は味噌をたっぷり朴葉の上に乗せて焼いてたんだけど、減塩になってきたので、お味噌を少なくして野菜の具材を多くするように。夏だと焼きなすを乗せたり、オクラやったりミョウガやったり。冬はどうしても野菜が少なくなっていくので、ネギや里芋とかサツマイモを乗せたりするんだけど、そうすると焦げるのも早くなるから、できるだけ水分のあるものを乗せながら、焦がさないようにお客様に召し上がっていただいています。
 村の加工所で麹や麹の花を提供していただけるから、こうして味噌を作ってお客様にお出しできます。自分たちですべてやるのは無理なので、鮎であったり、野菜であったり提供していただきながら営業しています。

手作りの味噌で作られた朴葉味噌

一緒に料理を作る著者

読み聞かせボランティア

 20年ぐらい前にボランティアを募集していたので始めることにしました。コロナの前は保育園にも行っていて。隔週で、お帰りの会の後、子どもたちが待っている間にしていました。小学校は朝の8時15分から8時25分までの10分間の読み聞かせをしています。本は、自分たちで買ったのもあるし、子どもに読んであげた本もあったり、昔の絵本やったり。自分が子どもの頃とは違って、物語も色使いも新鮮で、集中して聞いてくださる姿がうれしくて、とても楽しい時間ですね。我が子が小さかった頃は、仕事で疲れて充分読んであげられなかったことは、後悔しています。

使用している絵本

「平和の大切さ」を伝える活動

 そのボランティアをしながら、戦争のお話、原爆のお話を語り手として繋いでいこうと思いまして。そういうイベントみたいなことを、読み聞かせボランティアの一員として実施しています。保育園、小学校で絵本を読んでいるうちに、あるとき戦争の語り部の方がお見えになったんです。村から出兵した兵士の人の戦争の手帳を持っていらっしゃって。20歳の青年が書いた物なんですけど。戦争に行く人は必ず手帳があるんです。そこには、上海を攻撃するときの「十日間陣中日記」って題で書いてあったんです。その戦争の語り部の方から、「これは、ここの村の人のことだから、〝夢風船〟っていうボランティアで朗読をしてみないか」って言われてね。それをきっかけに20歳の青年が、死ぬ間際まで書いていた日記の朗読会を20年前に開いて。それから、5年、10年おきぐらいにいろいろ開催してきました。絵本の読み聞かせボランティアをしながらこの活動もしています。6月にイベント、戦後80年「せんそうとへいわ」第1部を、広島の原爆の語り部の方がお見えになって、中学生さんと一般の方にお話しされたんです。戦後80年が経ち、皆さん歳も取られて、戦争を体験した人がいなくなったから、若い方に来ていただきたいということで、中学生にも、時間を割いていただいて実現できました。第2部は10月に、ドキュメンタリー『村と戦争』というのを30年前に東海テレビの方が制作されて、放映された作品の上映会を行いました。第3部の朗読会は、令和7年6月22日を予定しています。そういう活動は仕事とか関係なくて、ボランティアで。絵本は好きだから読むだけだと思っていたら、その時々にある方がお見えになって、「こういうことを読んでもらいたいんだけど、どうかな」って持ってきてくださるんです。
 私が、中学、高校生の頃にベトナム戦争のお話はあったんだけれども、それはよその国のことっていう意識でした。考える人は考えていたんだろうけど、世の中の風潮として、よその国の話という感覚で来てしまって。若い方に戦争の悲惨さ、そして、平和の大切さを改めて知って、語り継いでいただきたいと思いますね。この活動から何かをしてほしいとか、大きな意識ではないんだけれど、何かの機会に「この村ではこういう戦争があって、悲惨な目に遭った人がいたんだよ」っていうことを覚えといてほしい。そして、戦争は体験して無いんだけれど、聞いたこと、見た映像のことを次の代に伝えていってほしいです。

戦後であってほしい

 これは、周囲の方が最近よく言うことなんだけど、「戦後であってほしい」って。私も、最初はピンと来なかった。今、戦後ですよね。戦争中ではない。その戦後が80年も続いているの。私は、その言葉がとても大切だなって。平和であるっていうことはもちろん大事なんだけど、戦後であるっていうことは、より重いような気がして。誰かの何かのきっかけでお話を頂いた時に、自分たちの出来る範囲で広めて、やってみようかなって思ったんです。今回は、校長先生とお話しして時間を作ってもらって、原爆の時のお話と映像を鑑賞する会を中学校で2回開催しました。『村と戦争』を作られたディレクターの方も、次は中学校で上映会を開いてくださって。そしたら、生徒さんの感想文が本当にまじめにっていうか真摯に聞いて、思いを文章に書いてくださっていて。大人の人はやっぱりいろんな考えがあって素直に受け入れないんだけれど、若い方は素直に受け入れられるのでね。「ほんとによかった」ってね。
 いいお話っていうよりも、どの人もこの村であった出来事、戦争に行かれた人もあり、村で家族を守っていた人もあり、亡くなってしまった人を思ったりとかの、いろんなお話をナレーションを入れながらお話するんです。
 『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(著者:汐見夏衛)みたいに小説が文庫版で出ているということは、若い人に見てもらうために書かれていると思うんです。イラストからしても。特攻隊員との恋愛を描いた悲しい物語なんだけど、今の若い子たちは戦争を知らないから、文章を少し読んだだけでも悲しくて怖いと思う。それ以上に怖い体験の文章もあるんです。『野戦病院』っていう、東白川村在住の方に聞き取りをして、それを元に文章にして、朗読をしました。本当に、人間であって人間じゃ無いような、そんな扱いをされて。「それが戦争だ」、「絶対戦争は反対だ」っていうお話なんですけど。
 実際にあったことは、小説よりもっと重くてね。戦死してしまった人もいたり、空襲で被害を受けたり。今、こうやって幸せに生きていられるのは、本当にその時あった経験のおかげかなって思うね。無ければ無いで、違っていたかもしれないんですけど。感謝しながら「戦後であってほしい」と思い、自分たちはこれから、何十年も生きていかないといけないから。戦争に対して何かを思ってくれる人が増えるといいね。

人との繋がりと出会いと奇跡

 その時々にいろんな方がお見えになります。ある方たちは釣りをするために30年~40年、毎年お見えになってくださるんです。20代ぐらいの時に初めて来ていただいたので、今は60代ぐらいかな。夏の始まりと終わりぐらいに来て「そろそろ夏が終わるな」って。
 後は、何十年もお見えになった方がご病気になられて、明日とも知れない命だったんです。自分が最期の時に「どうしても、この川をもう一回見たい」って、釣り仲間の人が連れてきてくれたんです。旅館の2階から見ることしか出来なかったんですけど。このお店を好きでいてくれただろうし、この村と川も人生の中にあってくれたんだなって思うと、ありがたかったなって感謝しています。
 外国からお見えになったりするときもありますね。会話は出来ないんですけど、ここら辺に見える方は何回も日本に来ていらっしゃる方が多いので、簡単な日本語とか、息子の通訳とかで話してますね。
 普通に勤めて働いとったら、きっと出会えなかった人にも出会えて。ほんとにいろんな出会いがあるよ。

東白川の自然

 初夏には、茶の新芽が朝日に照らされて輝いてね。大明神という集落では谷沿いにホタルが飛び交っていて、鮎を釣る人の姿が川のあちらこちらに見えて、山の木の葉の裏側が白く見えてくると、「そろそろ夏が始まるな」と思います。
 旧盆の頃の夕暮れ時は秋風の涼しい風が夏の疲れを癒やしてくれます。台風シーズンにはどこからかキンモクセイの香りが漂ってきます。
 新しい年を迎える頃には、霜や雪が降りてきて、きれいに刈り込まれた茶畑は、まるで幾何学模様のようで、心和むひとときです。現在は、茶畑が少しずつ失われて、時代の流れと共に様変わりしていて、自然豊かな村を大切にするには若い人たちの力が必要だと思います。

東白川の自然

若い人に伝えたいこと

 絵本を読むボランティアで、20年ぐらい前、お年寄りの方が書いた『白寿』という本があって、それを村運営のケーブルテレビ番組で朗読する番組名が、『2967分の1の物語』っていう題名で、その当時の人口なんです。2967分の1の人のお話。それが今はもう、2018人ぐらい。900何人ぐらいがこの20年で減っているっていうことは、本当は割合からいったら大きい数字です。それはお年寄りが亡くなったことと、若い人が出て行って、戻ってこないことが大きいと思います。第一の原因は仕事が無いこと、自分のところで経営していた産業が順番に廃れていっている。地域で出来る新しい仕事があるといいなと思いますね。これは、町でも一緒かもしれないね。若い人がそういうことを思ってくれればいいんだけど。
 長い間生活してきて、人口が減っていくっていう事はどうしても止められないことがあるので、そこら辺は難しいかなと思います。
 本当は、帰ってきてもらって、お家を継いでいただければ親御さんたちも安心だろうけど、実際の所、仕事が無い。先生になってお見えになるとか、職員になって帰ってくるっていっても人口の割合からしたら知れてる。そうすると、難しいかなって。今は、リモートワークで仕事が出来る時代なので、村でできる仕事を探して、活動の場を広げてほしいです。

PROFILE

今井 悦子(いまい えつこ)さん

下呂市萩原で生まれ、小学1年生の時に上麻生に移る。
27歳で谷口屋旅館に嫁ぐ。旅館でのご飯は地元の素材を用い、悦子さんの自家製手作り味噌も使っている。現在は、旅館の仕事の他に読み聞かせ、戦争の語り部の活動をしている。

取材日:2024年11月3日、2025年1月19日

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