千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 春見 弘文さん】

蜂屋の自然と生きる ~地域の産業と自然との共存~

自己紹介

 私は春見弘文。1932年(昭和7年)の4月生まれ。今は満92歳です。今は私たち夫婦と、息子1人で美濃加茂市の蜂屋町に住んでいます。岐阜市には孫が2人住んでいます。
 家には甥っ子がたまにお菓子をもってきてくれます。僕の所へよく訪ねて来るんです。その甥っ子のお父さんがとてもいい人でね、僕に百姓のことをいろいろ教えてくれたり、何をするにも頼りになる義理の兄貴です。

若かりし日の思い出 ~里山と家族と~

 僕の子どもの頃の家族は10人兄弟でした。僕は兄弟の長男です。当時でも10人は多い方でした。途中で、妹が1人亡くなりましたけれども、後は皆生きております。兄弟間は大変仲良しです。
 父親は大工をやりながら分家して百姓になったんです。私たちが住んでいた家も父親が作ったものでした。お嫁に来た母親は百姓だったので、忙しい時期には父親の百姓仕事を手伝っていました。私たち子どもも、百姓の仕事を手伝っていました。
 しかし、当時の農業の収入はほとんどありません。ほぼゼロと言っても良いぐらい。自給自足の生活やね。
 僕のばあちゃんは、キノコを採るのが好きでした。コケ採りっていうけどね。「コケ採りに行くぞ」って、僕を連れてキノコ採りに行ったんですけれどね、とても楽しかったです。色んなキノコが採れました。ロウジは大きさが10センチから15センチくらいの黒っぽいキノコ。独特の苦みがあるから、年を取ったお酒好きの人には高く売れます。一番美味しかったのは、ツツジタケ。形は悪いんだけれどもね、とってもいい味でね、五目のご飯なんかにすると、味は松茸なんかの比ではありませんでした。
 しかし、そういうコケ類はあるとき突然姿を消しました。一切今はありません。一番の原因は環境変化やね。コケなんかは悪い空気に非常に弱いんですね。排気ガスとかそういう変化に。だから今残っているのは、毒コケか食えないコケだけ。今はどこの山にも生えなくなってしまいました。本当に悲しかったですね。
 それからね、クリ拾いもしました。僕らが拾ったのはね、今の天津甘栗ね、あのスタイルのクリです。
 どこの山でもね、天津甘栗のたぐいのクリは拾っても持ち主がどうこう言うことはありませんでしたので拾いました。学校から帰りながら、「おい、クリがエンダぞ」って言う。「エム」って言う言葉はこのあたりの方言だろうけれども、僕は素晴らしい表現、大事な方言だと思う。クリがエムって言う。「笑む」って漢字でしょうね。「笑む」って言うのは、クリがまるで笑っているような感じに開くこと。笑っている、笑んでいる、笑むってね。そんな感じで「栗が笑んだぞ」って言って僕ら子どもはね、山に行って木の上でね、それを採って、剥いて食べました。こりこりとした食感でとても美味しかったです。
 ところがね、そのクリもね、僕が30歳くらいになったころ、突然クリタマバチという虫が現れたことで採れなくなりました。クリに芽が出るとね、そこに卵を産み付けるんやね。そうすると、寄生虫みたいに中で虫が育つもんだからね、養分吸っちゃう。するとね、クリがならないんですね。そうして、クリの木は全滅してしまいました。でも不思議なことにね、今はクリタマバチって、めったにいないんやな。だから何とか今クリはなる。自然の力やね。

蜂屋町の産業事情

 養蚕はね、この近所では一番の職種でした。明治政府がね、外貨獲得に生糸をアメリカへ輸出したんや。一番の外貨獲得の職種だったから、明治以降、蜂屋町でも養蚕は盛んで、どこでも養蚕をやっていました。
 養蚕農家では蚕はとても大事にされました。「お蚕様」って言うぐらいに。そんなこともあって、養蚕農家の家はたいてい養蚕用の造りなんですね。蚕を飼うための。僕らは居間でみんなで寝て、残りの部屋は養蚕部屋になっていました。桑って言うのはね、持って別の階に上がったり下りたりすると大変でしょ。だから2階は使わずに物を置いたりするのに使ったんです。
 養蚕はお米を作るよりも現金が入ってきましたが、なかなか難しかった。飼ったらすぐに繭になる訳やないんです。一番のポイントはね、女の人が上手に蚕を飼ってくれるかどうか。育て方が上手いと蚕は上手く繭を作って売れるものになるんですが、下手をすると腐ってしまうんです。病気になって。だから母親はとても養蚕に一生懸命でした。
 僕が子どもの頃、真夜中に目を覚ますとね、カラカラ、って音がしたことを覚えています。「セベ」って言ってね、蚕を飼うのに棚を作るんですね。蚕座(さんざ)とも言う。竹で骨組みを作ってその上に紙を敷いて、その上に網やザルを敷く。そしてその上に桑を置く。蚕は桑の上で飼いました。それを1段として10段ぐらい作る。その段を出すとね、カラカラっていう音がするんですね。だから、この音が夜中に聞こえると「ああ、おっかさんが起きとる。蚕なぶっとるな」とわかるわけだね。そのときに何やっていたかって言うとね、「セベ」を棚から出して蚕に桑をやっているんです。桑が固まっていたりして、蚕が上手に食えない場合があるんです。なので、母親が桑の葉っぱや蚕をうまい具合に散りばめたりとか、残った桑の葉っぱを片付けたりする仕事をやってるんですね。僕は中学校のとき、そんな母親の代わりに朝ご飯の準備をしていました。朝ご飯を作っていると、母の足音が僕の後ろから聞こえて来たことを覚えています。僕はそのうちに朝型の人間になっていきました。
そんな大事な養蚕ですが、昭和30年ぐらいにアメリカでできたナイロンが普及して、需要がうんと下がり、たくさんの家でやめてしまいました。
 僕の家でもある程度養蚕は続けていましたが、それでもとうとう昭和の終わり、昭和60年の頃にやめてしまいました。
 蚕をやめて、これからどうしようかっていう話になったので、当時地域でたくさんの家が作っていた柿を植えようか、ってなりました。だから柿の種を探してね、桑畑に蒔きました。僕は柿の世話をしたことはありませんでしたけれど、柿を剥くのは手伝いました。父親は一生懸命、蜂屋柿を作っていました。蜂屋柿はもっぱら父親の管轄でしたので、母親はあんまり手伝いませんでした。

子どもの終わりと新たな旅立ち

 僕は小学校を卒業した後、武儀(むぎ)中学校(美濃市)へ入りました。当時ちょうど学制が変わって、3年間中学で勉強してから卒業するということになっていました。しかし僕は、本来なら加茂高校に行く所を中学3年生でやめてしまって、百姓をやっていました。太平洋戦争をやっていたから仕方ないところもあるけどね。百姓をやっていたら食いっぱぐれませんでしたし、当時の百姓はとても良い職業でしたから。しかし僕の父親は大工でしたので、「俺は大工をしてお金を取ればいいので、そんな田んぼや畑はたくさんは必要ない」と言っていました。なので、家に土地はあまりありませんでした。そんなちっちゃい百姓でしたので、将来的に不安になってきたんですね。だから、「やっぱり学歴がないといかん」と思ったので、勉強をしました。そして、大学入学資格検定試験という試験に合格しました。これで大学の試験を受けられるわけですね。その後、岐阜大学の教育学部に入りました。そして教員になったわけです。その後、教員同士で知り合った今の妻と31歳のときに結婚をしました。結婚してからは生活を自分たちだけでやれるなと思ったので、岐阜市で生活を始めました。
 最初は岐阜市の長良(ながら)の方に住んでいましたが、48歳になったころに「蜂屋へ帰ってきなさい」と両親に言われましたので、蜂屋に帰ってきまして、以来ここに住んでいます。

新憲法と新生活

 1946年(昭和21年)、ちょうど僕の青春時代です。その年に新憲法ができたんやね。その憲法には、基本的人権の尊重とかが書いてあった。まさに「新」憲法でした。本当にびっくりするほどうれしかったです。一番僕に輝いて見えたのは、男女同権という言葉です。男も女も同権やぞってね、「すごい」と思ってね。「そうや、結婚したら二人で働かなあかん。二人で働けばきっと上手くいくんや」って思った。
 そんな感じで結婚した後は、自分たちで支えあいながら頑張りました。ちょうど相手が教員でしたので、奥方も働けますから。結婚するときにね、これから家庭生活をどうしようかって話になりました。そりゃあ戦前まででしたらね、男は外で働いて、女は家で家事をしましたけれど、女の人も働くんですから、そんな訳にはいきません。妻に、「あんたは何ができるの」と言われて、僕は、ご飯作りくらいならできたので、僕が朝起きてご飯を作るようになりました。奥方はその間にお洗濯をすると。そこまで決めたんやね。朝4時半に起きて朝ご飯を作り、妻を呼んで、朝ご飯を食べる。それでも割合で言うと、僕の仕事は家庭生活のせいぜい3分の1ぐらいでした。子どもができると、やるべきことはもっと多くなりました。 
 そんな感じで頑張ることは多かったけれども、そう悪いことばかりではありませんでした。例えば炊事でもね、自分の好きな物作ったり、「今日はおとっつぁんに美味しい物作ってやろう」とかね、「今日は奥さんにいい物を買ってきてやろう」と考えたり。いろいろ楽しめます。僕は同じ仕事をしてもね、ちょっと楽しめるような仕事の仕方って言うのはあるんじゃないか、と思います。他の人から見たら何でもないかもしれないけどね。そう悪いことばっかやない。良いこともある。そんなふうに考えて仕事をしています。
 蜂屋へ帰ってからも、僕たちは仕事を分担しています。僕は朝のご飯を作ることを92歳の今も続けています。
 僕は42歳の頃から腰が痛くなって、外科も内科も針も、ありとあらゆる物を使って治してもらっていました。そんな中、人に勧められて牧田さんという先生の所へ行きました。本当に素晴らしい先生でした。僕が、3回、1週間にいっぺんずつ通ったらね、腰はピンと治っちゃいました。それがきっかけで、僕は指圧師の免許を取ることにしました。教員を退職してから300万ぐらいお金を使って鍼や灸の専門学校に行き、指圧の勉強をしました。3年間。そして指圧師の免許を取りました。
 僕は朝と晩に、妻にマッサージをしています。妻の腰の調子が悪かったから。痛いっていうので、治療して、治してやったりしています。
 指圧を習うのにたくさんお金を使いましたが、十分お金に値するだけのことはできたと思っています。僕の父親や母親にもやってあげられましたので、習って良かったなあと思っています。これだけでも、僕は僕の役割を果たしたかなあと。
 この頃は、買い物は妻と二人でします。それはね、共働きをしとったものだから、他の家庭と違ってね、夫婦でお遊びとかお出かけとか何にもできなかったから。僕はたくさんのことを今、一生懸命妻と一緒にするように心がけております。罪滅ぼしじゃないけどね。

今の生活~蜂屋柿農家として~

 僕が作っているのは蜂屋柿。堂上蜂屋柿って言う干し柿にします。この蜂屋柿を生産する上で一番大事なことは、上等な生柿ができることです。柿そのものがね、良い物にならないと話にならない。良いって言うのは、もちろん中身のこと。中の水分が多いとね、外見は結構立派な物に見えても、干し上げると中身がなくなってしまうんです。切ってみると皮だけ。そういう柿が出てくるんです。だから、蜂屋柿の良い生柿を作るって言うのが一番の、これが決定的な条件やね。
 そのために大事なのは、摘雷(てきらい)と摘果(てきか)という作業。摘蕾は5月ぐらいに、柿の木から蕾(つぼみ)を切り取るの。そうすることで柿の数を少なくして、柿の果実を大きくできる。蕾は次から次へと出てくるから、3回から4回ぐらいに分けて3日ずつ行います。
 それができたら次は摘果。7月27日から1週間くらいかけて行います。花が散った後にまだ熟していない果実を切り取ってしまうんです。一枝に一個果実を残します。僕はなるべくたくさん摘果している。多くならせてしまうと、毎年一定数、品質の良い、大きな甘い柿がならないのでね。柿って放っておくとね、隔年結果性って言って、今年はなったけど、次の年はあまりならないって生理現象を起こすわけやね。そいつを防ぐためには、上手に柿を選んで残しておかんといかん。
 次に大事なのは土地。他の地域で作ると、蜂屋柿のようないい色の柿にはなりません。蜂屋の土壌やね。蜂屋層。あれが僕は一番の要因だと思っとる。それから蜂屋の地形。蜂屋は八谷、八つの谷とも書く。その名の通り、伊吹おろしがね、きれいに谷底、つまり蜂屋町へ吹いてくるんです。それが蜂屋柿ができる一つの要因のような気もします。蜂屋層の赤土の良さと、それから西風の良さと、そして農家の努力。まあ、そういうのが蜂屋柿を良くしている。
 そうして生柿ができたら干し柿を作る。まずは収穫した後、追熟と言ってね、収穫した柿を熟柿にする。そうすることで柿の渋みを抜くんだね。その追熟って言うのをね、3日も4日も1週間も。場合によっては10日ぐらい経ってもまだ渋が抜けないなんてやつもあるんです。だから次の作業に移るタイミングの見極めが非常に難しい。
 それができたら柿の皮剥きをします。ちょっと触ってみてね、追熟しているかどうか確かめる。そして、ほんのり柔らかくなったかな、って感じぐらいのところで剥くんです。だから、毎朝とか毎夕方柿に触って、剥ける状態かどうかって調べるんですね。細かなタイミングを探るために。
 剥いたら、燻蒸(くんじょう)っていってね、煙を焚いて、燻すんですね。燻製です。表面の防腐みたいな意味も兼ねてね。それが終わるとまた追熟します。皮を剥いてからだいたい2日とか3日休ませるんです。場合によっては、多い人は4日ぐらい休ませますけど。それから初めて天日に干すわけですね。それがだいたい20日ぐらいかな。23日ぐらい経つと、重さが生柿の時の半分ぐらいになります。そうなったら、干し柿を手揉みします。揉んだ後は落ち着いた状態にする。あまり触らない。3日ぐらいはお日様には当てません。      
 それが終わるとお日様に当てて、また乾燥させます。2、3日すると両面が乾くので、刷毛かけと言って、わら箒で掃きます。あとは干し上がっていくのを待ちます。
 堂上蜂屋柿にも品評会があるけどね、僕はこれで賞を取ったこともあります。僕は最初から賞を取ることを目指していました。柿を作っている人なら皆、上等な柿を作ろうと思って一生懸命ですよ。
 あるとき、ある方がすごくきれいな柿を作ってみられたんやね。柔らかくって、飴色のきれいな柿を持っていらしたんやね。あの柿は本当に、見ると食べたくなるような柿色でした。本当にきれいでした。「すごい柿やな」ってびっくりしました。作られたのは、納土洋一さんという方。それが作られた直後から、蜂屋柿は飛び上がるほど上等になりました。皆がね、一生懸命その良い柿を作ろうと切磋琢磨してね。その延長線上で僕も金賞になった訳なんです。僕たち農家は、あんな柿ができると良いなと思いながらね、切磋琢磨しとるんやけれども、なかなか上等になりません。
 ほかにも仕事は山のようにある。果樹の栽培をする場合はね、年中仕事があるんです。柿が済んでしまうと、落ち葉を片付けならん。全部を集めて燃やすなり、あるいは特別な場所へ持って行って捨てて、病気が残らないように心がけますね。それが終わると、寒い冬に剪定が始まりますね。その剪定もせならんし、剪定したやつも捨てならんし、そうこうしていると肥やしでもやらにゃならん。肥やしを3月が終わるまでにすると芽が出てくるし、花が咲きますと消毒もあり、じきに柿を1枝に1個にする摘蕾っていうのが始まります。それができたら、僕は畑に藁を敷くんですね。何で藁を敷くかいうとね、保水のため。あるとき南濃のミカン農家へ見学に行ったらね、ミカン農家は保水と土が流れないようにするためと、草が生えないようにするために茅を地面に敷いてるってことを教えてもらった。だから、「柿をやるんだったら真似しなあかんな」ってことで、僕は稲を刈って、「はざ」という、木の棒を組み合わせて作った物干し竿みたいな物に干して、藁を作って、それを柿畑に敷いとる。藁は道路に面した小屋に置いてあります。

春見さんの作業部屋

農作業の様子

若人への思いと里山への願い

 こんな感じでたくさんの仕事がありますけれども、厳しいとか、大変ということはありませんね。たくさんの変化の中でやれることはやっているんですけれど、えらくて大変でも何とかやれるので万歳って言うスタンスでやっていると言った方が良いかな。例えば、最初は環状線で柿畑を立ち退いた。で、蜂屋の南の方に土地をもらったら、そこも今度は工業団地にするっていって立ち退いた。で、今の所ですけれど、割と平らなところに農地を設けてもらったので、家から4キロもあるので、遠いけど、平らなところなので、仕事がやりやすいからいい。そんな感じのスタンス。若い人もそうですけれども、自分なりにやれることを楽しんでやっていく。これが大事ですよ。
 でもその中でも守らなきゃいけないこともある。自然もそう。自然や生き方もたくさん変化してきたけれども、緑の木が無くなってしまうような開発はしてほしくないっていうのは思いとしてあります。町の中でもちょっと自然があるだけでほっとする。僕はこの里山の生活が好きです。できるならば、周りに緑があふれているところに生活したい。お店がなければ困るだろうし、工場や職場も必要になるだろうけれども、住むためにはやっぱり緑のある地域を残していってほしいですね。

PROFILE

春見 弘文(かすみ ひろふみ)さん

岐阜県美濃加茂市蜂屋町で生まれ育つ。旧制武義中学校卒業後、戦争の影響から農家として生活。戦後、独学で岐阜大学教育学部入学後、教員として様々な小中学校に赴任。48歳の時に故郷の美濃加茂市蜂屋町に戻ってくる。退職後は専門学校で整体を習いながらも農家として働く。子どもの頃からの農業や蜂屋柿生産の経験を生かして、美濃加茂市蜂屋町の伝統的な干し柿である「堂上蜂屋柿」の生産を行い、令和5年には美濃加茂市蜂屋柿品評会において最も優れた県知事賞に選ばれた。現在は妻の孝子さんと互いに支え合いながら農家生活を楽しんでいる。

取材日:2024年11月3日、2025年2月9日

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