千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 木澤猛さん】

故郷伊深。地域と繋がる自分。

自己紹介

 僕は木澤猛といいます。昭和24年11月、美濃加茂市伊深町の生まれで、ちょっと離れたところにこの家の本家があって、その離れで僕は生まれました。
 それから、小学校へあがるぐらいのときに今住んでいるここへ出て来て、親父が家を建ててそれからずっとここにおります。

幼少期について

 伊深には「正眼寺(しょうげんじ)」っていう有名なお寺があります。正眼寺は、日本で一番修業が厳しいお寺やと言われとりました。最近は坊主になってくれる人が少なくなってきたものでやさしくなったのですが、昔はもうほんとに厳しくて、よく衣(ころも)着た坊主がはだしで走ってくるもので何事かと思ってたら「あれ脱走した奴や」って、しょっちゅう脱走があった。そういうお寺やったんです。正眼寺は子どものころから絶えず遊び場やったもので、座禅して修行しとる坊主を扉の隙間から覗いていて、「叩かれとる、うわー」って思いながら見ていたんや。
 小さい頃から馴染んだお寺やったので「禅宗」ってのに憧れがあったんや。あの厳しい修行をよくやるな、と思って。かえって親鸞聖人(しんらんしょうにん)の本願寺の優しい宗派よりも禅宗の厳しい宗派の方が憧れやったんや。

仕事について

 一番最初、僕個人で就職先を決めたのは名古屋の縫製会社。それが結構大きくて余裕がある会社やったので、社長に「僕は絵描くことも好きやしデザインすることも好きなので、2、3年勤めたらデザイン学校へ派遣してもらえませんか」って頼んだんです。そうしたら「うん、それじゃあお前の絵を見てみるわ」って言って、僕の絵を見て「数年勤めたら東京のデザイン学校へ派遣してあげるで」って。その約束をしとってそのつもりでいたら、そこの入社日の1か月前に正眼寺の先々代の老師が「猛、お前今年は高校卒業する年やったはずやな」って訪ねて来て、「ちょっと俺の車に乗れ」っていうことで運転手つきの車に乗せられた。どこ行くんか知らんと思ってたら、羽島(はしま)へ連れられて。「お前そんな訳の分からん縫製会社行くなら、俺のおすすめの酒屋があるでそこに入社を決めよ」って勝手に決められて。その羽島の「千代菊(ちよぎく)」という会社に入ったら、社長、副社長、専務、常務と男4人が「いらっしゃいませ」って頭下げるんやて。これにはびっくりしちゃってさ。もちろん何時に伺うってことは話してあったんやけど。これはもう老師が勧めただけのことはあるで、そこへ決めようかって。縫製会社の方には早速断りの電話入れてね、全く勝手な事やけど申し訳ないって言って。でも縫製会社のときに「2年後に東京のデザイン学校に派遣してあげる」っていう約束つけてもらっとったもので、千代菊にもなんか代わりの物が欲しいと思ったもので、2年勤めたら正眼寺の短大があるもんだから正眼短大へ派遣してくれって頼み込んで、オーケーになった。

正眼短期大学での2年間

 正眼短大に入って、家が門前やけど家には戻らずに寮へ入った。
 お寺の方は※接心っていうのがあって、1週間は座禅しっぱなし、夜の3時間ぐらいしか布団に入れへん。ご飯とかは食べれるけどずっと座禅なんやて。普通の者には足が痺れて痺れて。僕なんて痩せとったで座禅が組めたで良いけど、太っとる者は腿が太いもんで足が組めへんのや。そんな奴は涙流して座禅しとった。日中は短期大学で、一応普通の勉強を昼間の6、7時間ぐらいはやっとった。宗教科やもんで、国語算数の勉強だけやなしに宗教の勉強が多かったな。歴史もあるし、宗派によって誰がそれを作ったかとか、どういう修行の仕方やとか、馴染みのない言葉がいっぱいでてくるんや。お寺の勉強って、丸暗記する事が多く、漢字も難しいしひらがなで書くわけにはいかんで覚えなあかんかった。
 20人ぐらいは入学したけど、卒業するときは12、13人しか残ってなかったな。

※一定期間、日常の雑務から離れ、集中的に座禅を組み、自己と向き合い、悟りを目指す修行。

酒屋の仕事

 2年間正眼短大におって千代菊へ帰ったら、案の定「お前どこ担当したいんや」「何がやりたいんや」って言われて。「営業がやりたい」って答えたら、「ほんなら岐阜市内が良い」とか、正眼寺で2年間修行しただけで成績がどうやったということやなしに持ち上げられた。
 千代菊には10年おったけど、2年短大におったもんだから結局8年しか勤めてない。あの頃は景気が良かったもんだから、自分たちの給料でもね、おいおいこんなに給料上げて大丈夫かってぐらい上がってきよった。
 そうこうしとったら、伊深にいた親父とお袋が年取ってきたね。年に3回会いに来ても年食ったなあってことがあったもんだから、女房に「伊深へ帰りたいと思うけども、どうやろう」って言ったらオーケーになったもんで、帰ってきた。で、次は太田の「御代桜(みよざくら)」っていう造り酒屋に入った。
 酒屋っていうのは、お客様も大体おんなじ、売る酒の説明も同じで、ただお酒の銘柄が変わるだけなんや。だから、酒屋から酒屋っていう社員の入れ替わりが多いんだわ。でも僕なんかは、今まで千代菊として会ってたお客さんに、今度は御代桜ですってなると距離的に離れとるもんだから、羽島のお客さんとこっちのお客さんは違うとこだった。
 あの頃は喧嘩っ早かったでな、すぐカチンと来てしまうもんで、社長とはすごい気が合って良かったんやけど、他の人とは合わんくて。ついてけねぇって思ったもんで10年ですぐやめた。
 それじゃあこの近くでいい会社はどこやいな、と思ったら、美濃市に百春(ひゃくしゅん)っていう蔵元があった。「お客様が喜ぶようなお酒を造らなあかん」「原価がいくら高くなってもいいで喜んでもらえるような酒を造れ」って、そういう社長やったもんだから、「いくら金がかかっても美味しい酒を造れっていうような会社なら、僕も自信を持って売って歩けるな」と思ったもんだから、そこへ入社しました。
 あそこは従業員がいい酒作るんやけども、売り方が分からない。要するに、お客さん来てくれるやつを売っとりゃあそれで商売できた。せやけども、工場の中で作っとる人たちに申し訳ないで、「社長、1升一万円の酒を売れる市場を開拓しないかん。名古屋市内に行こうか」って言って、名古屋市内とか岐阜市とかへ行った。その頃は高い酒を売る酒屋が、岐阜市でも3、4件しかなかったんや。名古屋に行くとちょっとは多いけど。そういうとこを訪ねて行って、「こういう美味い酒があるでまずは飲んでみて」って試飲してもらって、1店1店酒屋を開拓していきました。お客様が出来ると売れていくようになって、それに伴って評判も上がってきたんやね。みんな「百春っていう酒屋はいい酒作るで」って言うことで勧めてもらって、だんだんお客さんがついてきて、そうなると僕自身への評価もついてきた。一万円の酒の売り方を知らんで、って社長に意見したことがあるもんだから、「おいこれはどうしたらいい」って聞かれるようになって、結局25年も務めたかなぁ。「百春に木澤あり」ってお客さんから聞こえるようになった。お前のお陰で百春の評価が上がったって言われるようになっていった。「僕はもうここで骨を埋めないかんな」と思った。今は岐阜でもベストスリーの評価を受けとる酒屋になったね。ほんとにずーっと酒屋ばっかり。

全国の酒について

 米もやっぱりピンからキリまでって言うと悪いけど、しっかりした銘柄米を買って造ると高いもんができる。その中でも、日本酒を造るのに一番適しとるといわれる五百万石とか、山田錦、そういう米は特に量が少ないもんだから高くなる。ご飯として食べるには美味しい米の中には、いろんな成分が入っとるもんだから、酒にするとね、雑味の出る酒になっちゃうの。最初から酒作る原料にする米っていうのは、雑味がない、というか旨味がない、純粋なでんぷん質の米の方が美味しい酒になる。
 それぞれが研究しとるもんだから、この銘柄は日本酒造りに適しとるとか、これはダメやとか、自分とこだけで抱えずみんなにオープンにするから、蔵元はほとんどわかっとるやろうね。1年に2回かな、お酒の品評会があるんや。優秀な銘柄を利き酒して、検査する人は県の醸造試験場のおえらいさんばっかりで、そりゃもうとんでもない数なんやね。岐阜県中の蔵元なんて言ったら、全部の蔵が出すわけやないけど、5、60の銘柄が出品されて全部検査される。で、点数つけて優秀賞の十銘柄ぐらいがあって、あとの物はその他の優賞みたいな形になる。それらの蔵元は、酒についての原料は何かってことを全部公表せないかん。そこへ行って点数つけながら、「これはあの米を使ったのか」ってようなことを全部チェックしてくれるわけや。岐阜県の酒は結構評価は高い。そういうのを真似して、材料はどういう米で何割ぐらい削った米が良いぞっていうことが分かって、「僕らも真似しようか」って。全体的にレベルが低かった東北の蔵元は、寒い所の人は飲むもんで、多少まずても売れてきよった。それに胡坐(あぐら)をかいとったんやな。それが、「おい岐阜県は全部蔵元がそれぞれ材料とか全部公表して利き酒をしとるもんで、どえれぇレベル上がっとるぞ。僕らもやらなあかん」って。3年経ってからかな、業界の者が「おいどうしたんや」ってみんな言うんやて。「おい、福島ってどうなったんや、こんなに賞に入るような酒、今までなかったのにどうしたんやて」って聞いたら、「お前らの真似しただけや」って。だから今は全体的にレベルは上がったよ、まずかろうって酒はなくなってきた。

仕事を通して好きになった酒について

 酒は会社に入ってから好きになったんやね。営業希望やったもんで、酒を飲まなかったら営業マンになれなくて、最初に入った会社で酒飲むために徹底的に鍛えられた。
 昔は景気のいい時代やったもんで、お客さんを接待する機会が多かった。だからバス2、3台に百人ぐらいのお客さんを誘って宴会しよった。そしたら社長が「新人ちょっと来い」っていうことで呼ばれて、「全部のお客様にお酌をして回れ」って言うんやね。百人おったらまず半分の人は「よし、お前にもあげる」て言ってすぐお酒が返ってくるんやて。ほんで、途中でもう酔っぱらってしまってえらくて敵(かな)わんもので、社長に「もうこれ以上は注いで回れません」って言ったら、「そんなことを言っとったら強くならん、トイレ行って吐いてこい」って言われて吐いて、水飲んで一服してまた次からずーっと回ってかなあかんかった。それやって何年か経つとだんだん強くなってくるんやて。そうこうしとったらやっぱり好きになったなぁ、酒を。
 飲む機会も、営業マンって言ったらその会社としての1杯だけやなしに、個人的なつながりで、「1杯行きましょうか」って、それがつながりになって「ちょっとお酒、売れ筋が悪いんでもうちょっと買ってもらえませんか」っていうような頼みごとが、やっぱりあるんやな、営業には。そういう意味では酒が飲めないとなかなか難しかった。

いろいろな趣味について

 一番古いのはね、小学校5年生ぐらいかな。写生大会が学校であって、それまで褒められたものは1回もなかったんやけど、5年生のときに初めて赤紙か金紙かなんや知らん貼ってもらって、1クラスに2人か3人ぐらいに入って。それでその5年生の担任の先生が、夏休みに「おい猛、来い」って。学校に行ったら美術室に連れてかれて、「この部屋にあるもんなんでも自由に使っていいで」って。絵の具もタダやし、版画の板も自由に使えて。先生から「今日は居るで来い」って言われて行った。それで絵も版画も好きになったんかな。その先生がいなかったら今みたいな趣味はなかったと思う。

木澤さんの描いた絵

 そして陶芸はね、作ることはまだ最近なんやて。ただ陶芸っていうか陶器は好きやったんや。酒飲みの盃(さかずき)は陶器やもんで、いろんな種類があるし焼き物があるし、日本全国のいろんな盃を三百ぐらい集めて、今日はこの盃、今日はこの盃って、それが楽しみやった。旅行に行ったら土産は絶対盃やったし、友達が遊びに行くって言ったときは「あそこはあの焼き物があるで、あの盃買ってきてくれ」って言って集めとった。

木澤さんが集めていた陶器

 日曜大工も好きやったもんで、盃を集めたけど小さいやつを三百も置くような棚なんてないので、自分で作るしかないと思って材料買ってきて作って。それで本も好きやったもので本も集めだして、もちろん作家は決まっとったけど、6人ぐらいの作家の本を集めて、本棚がいるもんでそれも自分で作って。なんでか知らんけどあの時は何でもかんでも集めよったな。器用貧乏やったもんで、「あれ欲しいな」と思うと、出来上がったものを買わず、ホームセンターに行って「これはどうやって作っとるんかなー」とかそういうのだけを見てきて、材料だけ買ってきて自分で作っていました。何でもできるもんやて。
 自分の部屋が1つ欲しかったもんだから、家の隣に6畳ぐらいのプレハブの住宅を買って、「趣味の館」として陶器とか絵とか全部その部屋へ入れた。春とか秋はそこでぼけーっとしたりしとる。

趣味で行っている写真

 絵やら陶器やら、木に字を彫る篆刻(てんこく)もやるでしょ。あとカメラもやりよったな。まず趣味は多い。金を使わずにやろうと思うと、絵なんかでも鉛筆で精密画を描くんやて。風景なんやけど影になるように描いてって、うすーい絵の具でちょっと色付けてって。その絵の具っていったら何十年前の絵の具、もうカチンカチンでうすーい色しか付かへんもんで、それ使っとったんや、それこそ子供が中学校の時の絵の具やで、金かけとらへん。篆刻も、子供が中学校の時に学校で使っとった彫刻刀で彫っとるだけや。今お金かけとるのは陶芸やけども、月に二千円で土も4キロもらえて、焼き台も釉薬(ゆうやく)の金も要らへんもんで、二千円だけや月に。
 あとは、歴史も好き。伊深は天皇家に関わる土地やったもんで、武士の戦争に巻き込まれとらんのや。この辺は、信長が岐阜を攻めるときに、最初は大垣の方から攻めようと思っとったんやけど、向こうに結構強い奴がおるもんで、小牧攻めて美濃加茂入って、富加へ入ってそれから岐阜へ攻めて、時間かかって岐阜を落としたんや。隣の加治田(かじた)ってところは信長が来て堂洞城(どうほらじょう)なんかを攻めたんやけど、「ごめんなさい、私たちは部下になりますんで」って言って結局攻められなかった。そのまま伊深に来たっていいはずなのに、ここは通り抜けとるんや。それはやっぱり、天皇に仕えとった武士が伊深を領地にしとったもんで、下手にちょっかい出すと京都から攻めてこられる。歴史も好きやもんでこうやってあっちこっちの本を調べてまとめてみたりしとるんやけどね、好きでないとできんでこんなこと。
 そういうことであっち覗いてみたり、こっち覗いてみたり、いろんな事やっとるな。

趣味の館「我楽多工房」

慣れ親しんだ伊深について

 これ「伊深しぐれ」。先々代の老師が作り方を京都で覚えて、京都と同じような味やと真似になっちゃうもんだからちょっと味を変えて、味が濃いものを作るようになった。最初は正眼寺のお客さんに食べてもらいよったんやけど、評判良いし、関に東大の法科を出て頭のええ人がおって、商売も勤め人もできなんだんやて。ほんで半分無職の食うに食ってけれん家があって、それを知った先々代の正眼寺の老師が「ほんならあいつに作り方を教えてやろう」と思って行って、作り方と売り方を教えたのです。ほんでやったら大評判で、もう今は日本全国の精進料理の店から大体注文が入るもんで、発送の方が中心で売れとるんやけどね。伊深小学校の給食で出るけど、クラスで1人か2人やな、これを美味しいって言うのは。お寺の料理は精進料理やもんで、肉も魚もお客さんに出せんのや。それで「これ肉やぞ」って言われりゃ、「あ、そうかな、肉かな」と思うんや。それとか、魚はうすっぺらい海苔に山芋を擂(す)ってくっつけてほんでフライパンで焼く。そうすると、鰻のかば焼きにそっくりなんや。そういうのがお寺の精進料理で、いろんなものを作りよったよ、昔は。伊深しぐれの原料は小麦粉、小麦粉を練って練って、ちょっとやそっとやないぐらいこねくり回して塊にして、醤油とみりんと砂糖も入れる。

伊深しぐれ

 正眼寺ってのは有名やで、人がいっぱい来るんやて。お寺としては禅宗、正眼寺ってのは妙心寺派っていう派があるんやけれども、評判の指導者が次から次へと出てくるもんやから、普通なら考えれんけど「僕のところも妙心寺派に変わるわ」って変わっとるお寺がずいぶん多い。正眼寺は日本一厳しい修行寺なんやて。僕の子どもの頃やったら2、30人泊まるところがないで「あそこの掘立小屋で寝てこい」って言うぐらい、沢山(たくさん)人がおったな。正眼寺は3年修行するんやけど、自分の家へ帰ってくと、正眼寺を出たってだけで煙たがられるんや。「あんなキッツい所で3年なんてよく我慢したな」って。僕も正眼短大出身で、僕の連れなんかも言いおったけど「お寺の人には正眼寺出たってことは黙っとるんや、煙たがられるで」って、そのぐらい有名。川上哲治(てつはる)って昔の巨人軍監督やっとった人もここで十何年、11月の座禅を組む1週間があるんやけど、そのときは絶対来てたし、どうせ座禅するなら厳しい所でってみんな結構遠いところから来てたね。
 伊深は年代も分からんどえらい昔の話やけど、天皇に仕えとった鷹司(たかつかさ)家と天皇の部下の領地やったんや。京都から何でそんな天皇の部下がこんなところに領地を持ってたかって言うと、他の地域は雑木林の中、富加とか加茂野とかは、今で言う平地で畑とか田んぼになっとった。それで伊深も田んぼでお米がとれるもんで、領地にしたと思うんや。そういうことがあって京都に住んでた人たちが伊深に領地を持ってたってことを知っとった。「※1 えげんさん」っていう人がわざわざ京都から伊深に修行に来とったんやな。「えげんさん」がここで修行しとったら、天皇が「えげんさん」に妙心寺の最初の住職になって欲しいってことで、日本全国「えげんさん」を探したら伊深におった。天皇が「妙心寺派の妙心寺を建てたいんで京都へ来てください」ということで頼んで妙心寺ができたもんで、伊深の正眼寺はその妙心寺の本山の奥の院として由緒正しきこの伊深にお寺を建てた。
 伊深っていうのは人口の割にお寺が多い。7軒あったんや。江戸時代になると、この伊深は千葉県の武士の支配下になったんや。だけど千葉県におった武士は、部下の2人の武士を代官として住まわせたんや。その1軒が※2 旧櫻井邸なんや。まだ今も残っとって大きい。その裏に小田島家っていうのがあって、何でそこに2軒並んどるかて言ったら、ここの裏山にお城があったんや、お城っていうか砦やな。どえらい急やったんやけど、直接上ってゆけるんや。山の一番上まで上がってみると、堂洞城は信長が燃やしちゃったんやけど、それもあそこから煙が見えたはずや。そして結構な米は取りよったもんで、代官でもこんな大きな家を建てられるだけの収入があったりしたんや。寺とか小さなお宮にしても護っていこうと思うと、やっぱりお祭りもしなあかんし建物の維持もしていかなんで、おんなじ百姓でもある程度の収入を出さな護っていけへんもんで、ある程度余裕のある町やったんやろうね。
 なんてことを調べたりしとる。

※1 正眼寺を開山した高僧関山慧玄のこと。今日でも「えげんさん」、「えげん坊」の名で地域に親しまれている。
※2 美濃加茂市伊深町にある、村長、郡会議員を務めた故櫻井福太郎氏が肥料米販売店兼住居として大正5年から8年にかけて建築した建物のこと。令和6年5月に地域活用拠点「IBUCAL」としてオープンした。

PROFILE

木澤 猛(きざわ たけし)さん

美濃加茂市伊深町で生まれ、高校卒業後に羽島市の酒造店「千代菊」に入社。2年勤めた後に正眼短期大学に進学し、卒業後同じ酒造メーカーに勤め、家庭事情により伊深に帰郷して「御代櫻」に10年、「百春」に25年従事。退職した現在は趣味を楽しみながら伊深の歴史を次世代へ繋ぐ役割をしている。

取材日:令和7年11月29日、令和8年1月31日

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