千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 柴田 典昭さん】

糧は山と田にあった

三和で生まれて育ったんです。成人になってからは関市の方の消防本部で勤めてましたので。七年ぐらいかな、廿屋から離れた時がありましたけど。後はこちらから通ってましたのでね。ほぼ、三和で育っていったということです。生まれは昭和十九年の七月三十一日。七十七歳です。結婚は二十七歳、昭和四十六年で、子どもは長男と長女の二人おります。

農家だった

兄弟はね、男ばっかりの五人。全員男でね。私が長男なんです。家は、元々は専業農家で。ただ、農家でも並みの現金収入がなくてもう生活できないということで、途中から親父が会社員になって、多治見の方に勤めたりとかいうことはありますけど、元々は農家ですよね。主はお米で。小さい頃はここらへんのどの家もそうやったんやけども、椎茸栽培が盛んで。ずいぶんうちの親父もあちこち広めていったようなこともしとったらしいんですけど。栽培をね、皆さんに教えたりなんかして、拡大していったようなことはあると言ってましたけど。昔は、原木は買うということじゃなしに、自分の山で伐って、それに菌種を打って栽培をするというようなことをしていたんですけど。それとお米と両方ですかね。

子ども時代の手伝い~山~

お手伝いっていうと山と田んぼ。山は椎茸の原木伐り。菌打ちもそうやね。手回しの、穴開けるやつがあるんですよ。あれでほだ木に穴開けて。ほれで、菌は部落の人が協同で、菌種を作ってた。そいつを持ってきて、それで打って。もう部落の人はみんな作れたよ。公民館のこっちのところにね、ちょうど菌種を作る所があって。できた椎茸は、行商人で買いに来る人もあるんですけど、どの家も乾燥部屋を作っとって、乾燥椎茸も作ってた。今は、自動で温度かけて乾燥をやられるんやけどね、そういうやつはないもんで。ドラム缶を半分に切って、半分を横にして、こちらから穴あけて。木をくべとった。その木は、山から持ってきた薪やともったいないもんで、椎茸の原木で、何年か使ってるともう椎茸が出なくなってもせてきちゃうので、それを乾燥させて、燃料にして。ほれで、椎茸が出なくなった原木も大事にして。そういうので、燃料にして乾燥して、それ(乾燥椎茸)を業者の人が買いに来とったと。

稲刈りが終わると、今度は山伐りね。ちょうど十一月頃から三月四月頃まで。ほんたらまた田んぼやらな。この繰り返しやわね。木を倒すのも、全部鋸ですよ。全部手で。倒して枝を払って、その枝も今度は薪にしたり。細かい枝もまた束ねて。ちょっと売ったり。やから何にも山に残らない。今の人らは(山の木を)全部倒して、いいとこだけとって、後は全部ほったらかし。そんなことは昔はしなかった。地面に枝が落ちたりとか、そんなことあらへん。

薪割りもやってた。子どもの頃も大人なってからも、やってたね。山から伐ってきた原木にならん木は薪にしたりとか、自分とこの風呂の燃料作らなんもんでね。伐ってきたやつを、発動機でエンジンかけて、回転する鋸でジャーっと伐ってね。それで薪割りをして。自分ところ用に作ってたね。

炭焼きもね、私の覚えがあるのは、ちょうど家の窯があってね。椎茸の原木にならん木があるでしょう。ああいう木で炭を焼いて。親が窯に付きっきりで。お手伝いした覚えはある。ほんと(私が)小さいうちやっただけやね

木やったんで

椎茸栽培は今はもうほとんどないし。もうこの部落でも、一軒だけになっちゃった。それは原木がね。なかなか自分の家で山を伐ってっていう、担い手がおらんくなっちゃった。山伐りは大変なことで。原木を購入してやるにはちょっと高すぎて、それならって話で、少しずつ椎茸作りができなくなったと。

昔はチェンソーなんかの機械も何もなしで、本当に手作業で自分の山から伐り出したり、自分の山がないと、よその山の木を買って伐ったりして。ほとんど休みなしに、小さいうちから山へは行ってたね。今のようにプロパンガスとか、電気関係の物は少なかったのでね。風呂なんかでも薪で沸かしとった。ごはんも竈で焚いて。その燃料が何かといったら木やったんで。全部を伐った残りのものを使って、風呂の燃料にしたり、お勝手の燃料にしたりというようなことやら、またそれを売りにも行っちょったりとか。薪にして、束にしてね。細かいのを全部縛って。関の方まで売りに行ったこともある。この山超えて。自動車があらへんもんで荷車で。親父が引く後ろを押して。朝早いうちから出て、途中の富加のへんの瓦屋さんに一部卸したり、関の方でまた半分を持ってったり。帰りは夕焼けがきれいだったでね。よくあんなことやっとったなあと思って。それが何か、普通の生活やって。強制されてどうこうということじゃなしに、自然にそういうことができとったんやなと思うね。

百姓から勤めに

中学校に上がると、だんだんプロパンとか、そういうのが入ってきたんやね。だんだん薪も少なくなってきたし、売れんようにもなってきたしね。少しでも現金収入もなんとかしなあかんというような考え方が親にはあって、百姓だけでは太刀打ちできんようになって、途中から会社勤めするようになったと。この部落では元々勤めとった人が見えたけども、百姓やっとった人が勤めに出るっていうのはうちがほとんど初めてだったと思う。それからちょこちょこと周りの皆さんも、何らかの仕事をして、現金収入を得ようという人も多くなったね。

牛やったでね

畑を少しね、家の前に。もう道路が通っちゃったけども。ここは昔は畑やったんですよ。向こうの離れたところにも畑がありますけど、サルとかイノシシにやられちゃうもんで、なかなか面倒見ることはないですけど、少しだけは(野菜)作ってます。全部ね、電柵やってあるんです。ここの田んぼも、ぐるぐるーっと全部(電柵)やって。今は大きな田んぼになったけど、昔は小さな田んぼがたくさんあったんですよ。十一面あったのかな。この前の辺りにね。今は一つになっちゃったもんで、仕事をやるには楽になったけども、昔はそりゃえらかったわね。土地改良をずっとやってくださったもんで、機械も入るようなって楽になったもんです。

昔は、牛やったでね。牛で農耕作業やってて。ちょうど今のリビングあたりが、昔は土間になってて、牛小屋があって。今はペットで犬や猫は家の中入れますけれども、昔は牛が大事で、家の中おった。それで農耕作業をやってた。今はトラクターでやるでしょ。あれを全部、鋤っていう道具があるんですけど、それを牛の後ろにつけて、牛に引っ張らせて、土をおこしてった。代搔きも牛にやらせて。牛はまぁ大変やったわね。

牛は大事な大事な働き手やったわ。どの家でも牛を育てて家の中で飼ってたね。牛の餌は田んぼの、畦草とかね、レンゲを作ってやったりとか、藁に混ぜてね。なかなか今のような、和牛を育てたりする買った飼料を与えてるようなことは、うちなんかではそんなことはできなかった。全部農家で採れたものを、おが粉っていうか、米ぬかを混ぜて食べさせていたね。田んぼの肥料でもそうやね。今は化学肥料で全部やってますけど、昔は石灰窒素っていう藁を腐らせる肥料はやってたんですけど、それ以外はいっさい。全部藁とか草を腐らせて、それを撒いて、田んぼの肥料にするというようなことをしていたね。牛に食わせたり、田んぼの肥えにしたりという。草も大事やったね。

牛を使っていたのはいつ頃やったかなー。昭和三十年代までやね。子牛を買ってきて、それを育てるんよね。そして、調教しなんのやわあ。変なとこ行っちゃうもんで。ベーっと走っちゃうもんで。それを調教するのがむずかしょうて。最初は手綱を持ったんやけど、終いには手綱なしでもね、後ろを付いて行くように。そういう調教をしなんもんで。自分たちで。牛は黒牛。当然年をとるとエラがって農作業できんようになっちゃうので、今度それを売って、今度は違う子牛を買って育てる。その繰り返しで。それで、メスやなしに、オスを買ってくるんやけど。オス、力があるんやけども暴れるもんでね、金抜きっていって、金玉取って去勢をするの。そうすっとおとなしくなって従順するようになる。ほんで、順番に土を掘り起こしていくんやけど、これが真っすぐ行かないで、こんなふうへ(曲がって)行ってまったら、耕作が全然やれへんもんで。真っすぐ行かせるように調教しな。私は調教したことはないんやけど、親父が全部やっとった。特に調教の仕方を学ぶ場があったとかではないでね。みんな我流で言うことを聞かせよったよね。手綱を取ったことは私もあるけどね。

子ども時代の家の手伝い~田植え~

田んぼのお手伝いっつーと、学校でも農繁休暇っていうお休みがあったでね。学校自体がもう、そういうお手伝いをしなさいという日が、二、三日間はあった。その他にも学校を早引きしてきてね。「今日は昼からちょっとお手伝い入れさせてください」と言って家に帰ってきて、稲刈りをしたり、田植えをしたりと、いうようなこともありましたね。

田植えは家族で。あと手間替えっていってね、親戚の人だとか隣近所空いとる人に来てもらって、その代わり今度は空いたところは行きますよという手間替えっていう、助け合いがあった。屋根の葺き替えもそうやわね。今では結の精神ってありますけど、あれと同じことで。手間替えって言ってましたけどね。

稲刈りも機械がないもんで、全部手で刈って、はさがけして、足踏みの脱穀をして。乾燥機もないもんで、天気のいい日は外へ出して、並べて干して、夕方になったらまたそれを取り込んで、その繰り返しで乾燥してね。ほんとに朝から晩まで働きづめやったね。

月明りで稲のはさがけをして、それから家へ来て、それから夕飯をつくるので、夕飯はもう八時九時ばっかよ。ほとんど月明りでやってたね。電気も、懐中電灯も使ったことない。この家の前でもはさがけやっとったんやけど、十三段から十五段の高さにはさがけをするんやわ。俺が上のぼったところに、下からビューっと(稲の束が)一つ飛んでくる。ほんで、それをかける。そしたらまた下からビューっと。月明かりが暗いもんで具合がわからんだでね。たいぶ苦労したことあったっけ。

忙しい時は弟なんかは、この縁側のところに体を紐で縛られて。それで親父んた田んぼで仕事しとった。(弟が)どこへ行ってまってもあかんもんで、こういうふうに縛っちゃった。動物みたいなもんやわ。はっはっはっは。それでないとやれなんだということよね。だもんで子どもなんかはほとんどほったらかしやった。みんなだいたいそんな感じやった。みんな遅くまで働いてたね。

麦を踏み、うどんを食べる

今は稲作だけですけどね、昔は麦も作ったもんです。麦を作らなん理由は、屋根が茅葺屋根だったでしょ。その茅がないと葺き替えがやれんので、作って、二年なり三年なり備蓄して、たくさん溜まったら、屋根の葺き替えをやるということなんです。大変やった。今は稲刈りしたら来年の田植えまで放りっぱなし。昔は稲刈りが済むと、次は麦の種まきで、それから手入れて、冬の麦踏みしたりね。麦踏みはね。ちゃんと押さえてやらんと、丈夫なふうに出てこないの。このぐらい(十㎝~十五㎝)に芽が出てきたら、それを全部倒しちゃうの、足で踏んじゃって。子どもん頃から駆り出されて。田んぼん中、足で踏んで。そうすると丈夫な麦わらできてきて、成長するの。

屋根の葺き替えは、お手伝いさんに来てもらって。麦は、廿屋口の突き当りのところにうどん屋さんがあって。そこへ私んとこで採ったやつ、全部持ってくんです。そんで物々交換やね。うどんをもらってきて。「もううどんがないよ」って言われるまでもらってきた。それで子どもん時はうどんばっか食べてたね。そりゃ米も食べましたけど、うどんが多かったね。

農作業一年の流れ

米は、今は一・五反ぐらい、ちょっと休耕したところもあるのでね。昔は、周りでようやらんところがあったもんで、そういうところ借りてやったんですよ。それで相当な面積、三反以上はやっとったね。小麦は全部でなしに一部で作っとった。

だいたい田植えは三月頃に。今は機械でやるので、箱苗を作るけども、昔は苗は田んぼで作ってたもんで。苗床を作ってね。それからそれをむしり取って植えよったもんでね。その苗床を作るのが三月頃。ちょうど麦が終わる頃で。そうすっと今度は畦塗りをしてね。畦の半分を取りさらって、そこへ今度新しい泥を塗って、綺麗に畦を作って。そしたら今度は豆を撒かな。畦豆やわ。畦豆を作ってまたそれを収穫して。そういうこともやってたもんです。

草刈は、草刈り機がないから全部手で、畦の草を刈って。草刈ると、牛の出番になって、おこして。で、今度そこへ草とか藁を集めてね、こういう大きな山を作って腐らかせておくでしょ。それを今度田んぼ中に撒いて、そして水入れて。

今度は代掻きよ。代掻きも牛でやりよった。そして今度苗床に作った苗を取って、今日一日分植えるやつを朝からもうダーッと取って。それが済むと、収穫までは(米づくりの作業)なくなるけど、昔は薬なんかふらなんだでね。除草剤は。みんな手で雑草を取ってかき混ぜて。田の草取りって言って、草を取って、稲刈りをやっとったもんですよ。全ての作業は手でやって、束ねて縛ってはさがけをして。その間にまたはさも作らなきゃいかんし。だから大変な作業だね。はさも、十何段も作ると、そんな背の高いやつを作るのに大きな木がいるでしょ。だからはさがけ小屋っていうのがあったでね。長い木、はさがけの木を保管する場所。そういう所から木を出してきてはさを作って。

そして稲刈り終わると、今度稲刈りの株の中に、麦を撒くと。麦は放っとけば、育ってくもんで。ただ冬に、霜降りる頃に、麦踏みをしなきゃいかんもんで。今は、収穫の終わった田んぼはぼっさぼさで稲のあれ(ひこばえ)が出てくるでしょ。昔はあれがないんやわ。ちゅうことは稲刈が遅いのよ。ひこばえが生えるゆうは、早く稲刈りするもんで、まだ栄養もたくさん残っとるし、気候ええもんで、また芽が出てきちゃうね。昔はもう寒くなるぐらいまで稲刈りしなんもんで。今は八月には稲刈りするでしょう。昔はこんな頃には稲刈りしやへん。十月か、そこらぐらいからしかやらへん。そこに麦を植えると、芽が出てくると。あとは麦踏みするだけで、麦ができればそれこそまた手で刈って、それであとは干して乾燥して、家の中とか蔵へ入れて保管する。ほいでモミは干しておかな、麦わらは干さなならんわ、まぁ大変やね。

好きな食べ物、嫌いな食べ物

田舎やもんでね。昔からそうなんやけども、お袋は煮物料理とかね。そういうものが多かったもんでね。そういうのに舌が染まってきとる部分はあるみたいで。今の若い人がつくるような、見た目が綺麗とかそういうようなものはなかなかないけど。昔からある、お袋からずーっとつくり続いてきたような料理が好きなものの一つかなあというふうに思ってるんですけど。

味噌もつくっとったで、醤油まで。まぁ、その匂いが私は嫌いで。未だに味噌は、味噌汁食べれないんです。そのときのイメージが強すぎてね。なーんか味噌になるともうー。家のここらへんに昔のおくどさんがあったんやけど、このへんの味噌と醤油の匂いがちょっと嫌で。とにかく味噌となると、まず頭がそれになるもんで、味噌汁は飲まない。

山の姿の今昔

自分の山はだいたいどこにあるかということは、常日頃親父について山へ伐りに行ったり、お手伝いをしとったもんで、ああここがうちの山やなっていうのはわかるんやけども。うちの息子は知らない。隣の山との境なんか、どこにあるかなんてことも。昔はきちっと境もつくってやってたんやけども、そういう里山は、本当に崩壊してまって。

山はもっときれいやったもんね。開けてたっていうか。茂ってる山も昔は伐採するもんで、なんとなくきれいなんや。今はもう草から木からなんやわけのわからんものまでいっぱいに生えちゃって。昔伐った山への道へはもう車も入ってけんし、歩いても行けないような状態になっちゃってる。

伐ったあとは、また植林をしたり、下刈りをして育てたり、そういうことをずーっと個人でもやってたし。部落の山もあるんで、そういうものは部落総出でやってたんですけど、今いっさいそういうことはないでしょ。部落の山はどこにあるかってこともわからない。私も部落の山へ植林にずいぶん行ったんですよ。そんで下刈りも、ほんとに何回もやったけども。今は相当大きくなってると思うけど、木の価値がなくなってね、もう今はかまう人も少なくなってしまったわ。

集落のこの先について

こないだも、近くの人と話しとったのが、田んぼね。もう、あと十年経ったらおそらく誰もやる人おらんやろ。それで共同でやったらどうやというように話が出とるんやけども、共同でやろうとする担い手がおらんね。小さな機械でやるっていうわけにいかんもんで。大きな機械でダーッと一遍にやってしまうというのは今普通やよ。そうすると、借金をして大きな機械を買って、その借金を抱えながら何年やってくれる人がおるかと考えると、とてもよおせんと。息子も、ほとんど田んぼやりませんのでね。人もそうやけども、機械が。今トラクターもありますけど、これ悪なったら新しいの買って、ずーっとやれるかどうかって考えると、ちょっとなかなか難しい。

三和への想い

土地がだいぶ荒れてきましたけども、やっぱり三和の魅力は、自然は豊かであるということだろうと。蛍の出る環境面で考えてみてもね、自然環境は整っていて、いいなと思ってますし、地域性というか、人の良さとかね、そういうのは本当に良い地域ですので。人に遠慮してものを喋るとか、そういうようなことはなし。ざっくばらんにお話できて、もうみんないい方ばっかりですので、そういう点は恵まれた環境であるんやなとは思いますね。

ただ将来は、農耕作がどうなるかということが、一番気がかりなことではありますね。機械になったけれども、なかなかエライもんね。これから先もなんとかやっててほしいと思うんやけどね。

ここにも空き家がありますので、若い人が来てくれてね、一緒になってやってくださる人が増えてくると一番いい。どえらい発展をしてくれんでもいいけど、今の環境を維持できるようなね、そういう人が本当に来てくれるとありがたいね。

 

 

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