千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 酒向 幸男さん】

柿の実(な)る秋の日西洞
~やっぱ人が欲しいね~

蜂屋柿は今年はどこもいっぱいなっとるやろ。いろみがはやいで、まあそろそろそろ採ってもいいかもわからんけれど。ちょっと早いもんで。暖かいもんで。今干すとカビちゃう。ひねらんうちに、あかんようになるとあかんで。干したとこもあるけど、カビちゃうで。

【思い出】

兄弟

兄弟は、いち、にい、さん、しい。わしは六人。当時、子供は多かったということもあって、その家(うち)によっては子守もしなんし、終戦後特に、兵隊から戻ってきてみんなで一緒になって、子供は次から次へと生まれてくるで兄弟が多かったでね。昔は、はやり病やなんかで亡くなる子が多かったもんで、私が生まれる前に二人。二つか三つぐらいで死んでるんかな。次男坊として昭和十五年に生まれて、二つ下の子が中一の時にちょっと事故で、ここの家(うち)作る前に亡くなった子がおるし。結局、今、もう(まあ)わしの弟が一人おるだけで。家(うち)におらなあかんということで、跡をついだが、いまだに貧乏しとるわ。

田植え

田んぼはコメ作るだけやで、そんなに作ってはおらなんだんやけども。下の田んぼを借りたり貸したりしながらやっとったんやけども。

昔は小学校一年生でも、田植えと秋の稲刈りは、農繁期といって農休みやった。学校休みやった。二日も三日も手伝って来いと。学校休んで、それやりよったんやね。

田植えはお祭りみたいやったね。田植えが一番の仕事やったけど、俺んたあはちょっと遅かったで、そうゆう風にずれがあるもんで。他所から自分のとこが済むとお手伝い(てったい)に来てくれよったね。お手伝い(てったい)は、近所の人やよ。廿屋(ツヅヤ)のほうの人とかね。大体(でーたい)。女の人が多かったね。田植えだけはやっぱりどうしても手数がいるもんで。手植えばっかやで、機械(こんなやつ)はないで、たくさんある人はそういうお手伝い(てったい)頼んでね。今みたいに箱苗で作るわけやあらへんで、苗から取ってかなあかんもんで、手伝(てったう)ことはあたりまえやったね。その日のうちに植えなんで。昔はそうゆうことをやりよおったね。今は知らん顔やけど。そんでええけど、今は機械でやってくだれるで。ちょっと時間あると田んぼ入って、一緒にこう植えて。金払うわけでもなし。本当のお手伝い(てったい)やね。子供もね。

昔は機械もなにもないでね、田んぼ掻(カ)くにも、どこの家(うち)でも、牛や、終戦後は馬がおったで。この前にそこに牛小屋があった。玄関入った右側は、台所(だいどこ)っちゅうか、庭(にわ)台所(だいどこ)ちゅうか、どこのうちやて部屋あるわね。そこがだいたいが馬(まや)小屋(ごや)やった。ほんでここら辺に、火であたる囲炉裏(イロリ)があって、そこがメシ食うとこやった。昔の造りやけど。

おやじは農業専門やったね。昔は勤めというのがなかった。みんな養蚕をやりながら、薩摩芋を作りながら。この辺平地(ひらち)がないで、みんな斜面(こん)の(な)畑ばっかやったでね。便利の悪いところで車がないで、背板(せいた)でしょったりなんかしながら。

畑は養蚕が一番金になったんやないかな。昭和三十何年ごろまではやったんやでね。戦前からお蚕、この辺はぜんぶやっとったとゆうことやないやろか。この部屋の中はお蚕だらけやった。ほんとのお蚕処は、大きい家で二階までもあったんやろうが、このへんはそんなわけにはいかんで、全部(ぜんぶ)部屋(ここ)で、下の小屋でやってみたりね。それが一番の糧やなかったやろか、生活のね。

お蚕をやりながら、タバコを五、六年作ったかな。昭和何年ごろかな。子供のころ手伝った事があるで。大きな葉っぱやもんで、タバコの葉っぱは。そいつをそれなりにとってきて、そろえて、乾燥して、集荷場があったと思ったけど。古井やね。加茂高の東の昔の小学校のグランド。今保育園があるところやないかな。この集落で五、六軒で共同で作って、今はないけど乾燥小屋を。火を焚いて、薪を焚いて、納めよったっていうだけの話や。あれは、葉っぱネチネチになるからね。さわるの嫌やったけど。そうゆう大きな葉っぱをとってきて乾燥して納める。小学校五年から中学のころ、昭和二十五年から二十九年頃やったやねーかなと思うけど。

桑畑は、今は山みたいになっとる。こんな所(とこ)ばっかやもんで。平地(ひらち)の畑はないで。当時椎茸がね。種菌を作った人が廿屋(ツヅヤ)地区に。いい菌を発見して。ほとんどの人がやってみえたぐらいやでね椎茸は。自分の山を伐ったり、他所(よそ)の山を借りて伐ったり、うちもだいぶやっとったんやけど。それは小学生から中学あたり。

親父について、朝はけっこう早く(はよ)からね。それこそ暗く(くろ)なるまで、行って(いきょう)たんやで。今のように遅く(おそ)行っては、早く(はよ)帰ってくることはしやへんで。冬なんかはとくに、山ばっかやわね。大きな木を出す人は道でも組んで作って出す人もあったし。一山買って出す人はそう(そ)ゆう(う)やつと、バーット馬橇(バソリ)で、馬に積んで引っ張ってね。出して。ほんでも今でもそうやけど。そんな便のいいとこばっかがあるわけやないで。機械でこんなこんなしてやってくようなことは、沢山(たんと)無い(ねえ)から(で)ね。奥のほうへ行くと勘定するとあわへんわね。いくらいい木でもなかなか。個人では木を馬で出すことはしやへんよ。自分達(た)で、そんなりに手で出すだけで。そらまあ高いとこの山は。原木のやつなんかは、椎茸に(ん)合うようにこんなやつ切って順番落として(おてえて)きたり。それこそ長いやつでザーット。落として(おといて)きたり。下のほうで伐るとか。その地域に合うやり方でそらやってきたんやけど。今はそんなに。山もっとる人もそりゃああるけど高い(たけー)所(とこ)なんて行って伐れやへん。けっこう残っとる所(とこ)あるわね、そうゆう木は。ほとんど山へ今行かへんで。

そりゃこの辺は松茸(まったけ)も人気よかったんやけど。松が枯れちゃったでね、赤松も。よお生えとった山を持っていた人(ひと)たち(んた)でも、今は山も行かへんわそら。高い(たけー)所(とこ)なんかいっても、はや(はえ)行くだけでくたびれちゃって。昔はよく(よお)生えとったでね。当たり前に登って行きょうたんやけど、今は生えとるか生えとらんかわからんっちくらいのもんやもんで、見に行かへんで。行く人はあるやろうけど昔ほど出んでね、今は。

そういう仕事をいやいやながらも、忙しいときは勤めながら、手伝っとったわ。

弁当

山へは、いっぺえ弁当持ったり、おにぎり持ったりなんやして行くんやけど、今のようにおかずはそうたいへんあるわけやねえもんで。それこそ漬けもんに、味噌なんかは玉味噌作ってね。昔はどこの家(うち)も玉味噌つくって。自分の囲炉裏の上にあげて、きれいかきたないかなんかわからん所にぶら下げて、乾燥させてね。そんな味噌をおかずに持ってって、焚火で焼いて食ったり。玉味噌やわ。元やもんで。大豆の豆をつぶして。麹を混ぜてね。あーゆう味噌をあーゆうとこで食うとまた。焼いて食うとまたうまい。火焚くもんでけっこうそんなんで温(ぬく)とうして、ちょっと焦げたとこなんか。葉っぱの上に、乗せたりやなんやかんやすれば、結構おかずになっちまうで。肉やそんなにあるわけやないし。貧乏(せーがね)な(え)家(うち)はそんなもんでしかおかずがなかったで。

漬物は家(うち)にいっぱいあるもんで。昔は大根。たいがいつけて、樽に2杯3杯とそれこそ漬けもんは。ほれから、味噌も作ってた(やりょおた)もんで。買うっていうことはなかったで。家(うち)で樽に味噌作ってやっとくと、上に染みてくるのが出てくるわね。それがタマリやでね。それ使ったりなんかしとったで。たけーやつはなかったけど。

昭和二十一年に小学校一年生に上がったんやけど弁当持ってくる。昔は弁当ばっかりやったでね。けっこう薩摩芋なんかを弁当に持ってくる子も中にはおったけど。食べ物的にはそんなに。うちにそれなりのやつはあったで、あんまり苦労はしなんだような気もするんやけど。食べるだけの量はなんとかなったで。

昔やっぱ麦飯やったでね。今のような白米やのうて、麦をいれるのが当たり前やったで。わしら弁当持ってくにも、なるたけ白いとこよそって、弁当はそうふうやったね。白米炊くっちゅうことはなかったで、皆どこの家も一緒やったと思うけど。

田植えのお手伝い(てったい)してもらう人には、やっぱりご飯食べてもらわなあかんで、お櫃でご飯持ってって食べたりなんかちゅうことをしとったね。そうやってお手伝(おてってえ)してもらう(まう)時は、やはり白米だけの。せっかく来てもらうんやで。お櫃に盛ったりなんかしとったね。何杯でも食べれるように。そういうときは麦は入れなんだ。おかずも、持ってかなあかへんで。漬けもんだけちゅうわけにはいかへんで、それなりにその時のものを、工夫(かんこう)しとった。

食べ物

いいもんは食えなんだけど。ちくわでもなんでもやけど、そんな(そお)に毎日(めえにち)今のように、毎日(めーにち)食える品物やねえもんで。お正月かお盆か、豚でも牛でも当時そんな食べてってことなかったね。

まあ昔は鶏がおったもんで、家(うち)に。正月前やというと親父(おやじ)んたらが捌(サバ)いて、わしは子供時分やったで捌(サバ)かんかったけど。鶏が一番肉やったもんで。

卵を産むようにそれなりに下の小屋で飼って、卵を持って、川辺に集める所(とこ)があったで自転車で持っていったりね。川辺まで峠を越えてだいたい五キロやね。どーのくらいおったやろ。七十から八十はおったと。初めはバラで、平地(ひらち)で、それからあのケージちゅうかな。手伝いは、する(ほんな)わけやねえ、知らん顔や。昔の鶏小屋のケージ。餌やるやつはもう(まあ)捨て(ほから)な(な)あかんと思いながら、それこそ六十年も軒先に長いやつが下にほかったるわ。餌(エサ)は昔やで小糠(コヌカ)や唐黍(トウキビ)を混ぜたりやっとたんやないやろか。唐黍(トウキビ)も畑で作ったが、全部作ったやつをやったとゆうわけやないけど、エサも買ったりしながら、やっぱ勘定が合ったんか、合わんのか知らんけど。それでも結構日銭を取っとったんやろね。

川の魚は釣って、むちゃくちゃどえれえことおるわけやねえもんで。釣ったやつはそら食べた。今でも鮎はおるもんでこの川は。やけど友釣りなんか、今は釣る人はねえけど今でも放流するよ。最後は網でとるんやけど。釣りはやりょうたけど、その魚を常時とってきてちゅうわけはなかったけど。

サンマ安かったでね。昔ね。しょっちゅうサンマを買って。今は高い(たけー)けど、サンマなかなか食べれんけど。今のようにガスコンロでこんな一匹を長いやつというわけにはいかへんで。くるっとまわして丸く(まるう)して、こう尻尾を目玉(めっくりだま)へ。通して(とえーて)。七輪というやつで焼いて。そう(そ)やって(やって)食べてた(たべよおた)ね(ね)。

行商の人は川辺のほうから来とったね。スーパーなんかないもんでそうゆう人から。そこにタバコ屋やとか酒屋。二軒ばか店はあったけど、そう(そ)ゆう(う)とこでそら買うもん買っとったんやな。野菜なんか買わへんで、家にそれなりにあるやつを食べとるとゆうことやで。どうでもこれ食べてえ、あれ食べてえってことはないで。

戦後のこと

終戦後、町の人がきてね、コメを買って行く(く)なんてのは、この辺でもあったやろうけども。家のない人が、戦後引き揚げてきたり、町で空襲にあって疎開してきた人がおったよ。うちの下に小屋があったんやけど、そこにも、半年か一年ぐらいやしらんけど、他所(よそ)の人が住んでいたこともあるしね。どうしてまったかそれはわからんけど。もう(まあ)その小屋は壊してしまった(まった)でないけど。同級生でもやっぱり鹿塩(カシオ)なんかに引っ越してきて、二人くらいおったよ。ちょっとの間(うち)やったけど。今は、古井やほれから可児に、まんだ元気やと思うのやけど。そうゆう子もおったよ。一年おったのか二年おったか覚えねえけども。

昭和二十五、六年っていうと、日当は三百円かそこらやなかったかなあ。うちの親父が、砂防(しゃぼう)工事をやる仕事が国から来た時に、この辺の責任者頼まれて親父やっとったわ。石を積んだり、堤防作ったりするわな。防災提かな。土建業者が少な(すけな)かったもんで。そうゆう仕事をみんな勤めに行くとこがなかったで、来とったんやよ。結構おおぜいの人がうちで、わーわーわーわー、昔は飲むやつが楽しいで。そいつの帳面見ると三百円位やなかったか日当。そんなもんやったよ。ほら。二十五年か七、八年か知らんがそんなもんやなかったかなあ。禿山(ハゲヤマ)やそうゆうとこもあったし。谷が崩れた所もあるし。そうゆうとこ国が、木を生やさなあかんっていうことで。けっこう多かったんやね。そうゆう伐った後の手当やなんか、やらずにおったで。

楽しみ

どこの家もね、むちゃくちゃに余裕はなかったと思うんやけど。ほんでもなんとか皆(みんな)、過ごして(すごいて)きとるでのお。それで暮らせたんやね。

たくさん(たんと)使うこともなかったし。冷蔵庫、テレビ買うわけでもねえし。昔はラジオがピーピーいいながら、静かーに聞いとったでね。五時四十分からやら六時頃になると、ラジオの連続ドラマがあるで聞いとった。子供向けの番組があったよ。夕方なると十五分か、二十分かしらんやるドラマを。時代劇かなんかやったかな、三太物語かなんとか。結構、楽しみにしとったような時があったような気がするな。テレビがないでね。

遊びは野球もやっとったよ、テニスボールで。小学校時分は軟球は使えへんで、そうゆうのでやっとったり。まあそれらしい遊びは、野球しかなかったくらいやないかな。サッカーはないし、バスケットもないし。

パンコもやったよ。丸い奴でこうやって。ひっくり返して、そいつを取ったり。そうゆうのをやっとったよ。取られてばっかおって。今はそうゆう遊びはねえわね。女の子はゴム飛び。輪ゴムかなんかあんなようなやつをこうやってとんだりね。今の子はちっともやらんけど。そんなやつを結構やっとったね。

遠くには行かん。バスがないで、自転車ばっかやもんで、外へ行くことはほとんどなかったね。うちのオフクロの在所は、可児市の「土田(どた)」っていうとこやった。ここから歩いて川辺の駅まで行って、ほれから汽車に乗って太田へ行って、駅前ずーと歩いて、渡し舟が出とったで、川を渡ったところがおフクロの在所やったもんで。船乗って在所にいきよった。今の太田の中山道会館にあそこに前進座っていう、劇場があったわ。劇場の下から渡しが。鉄線が、だーと、一本引っ張ったって、そいつで船をやって、流れちゃうで、流れるとこやもんで、そんなんで漕いで、渡って。木曽川やもんで、ほらやっぱり犬山や羽島とは流れが違う。今は、船頭がおらへんで無くなったけど、ライン下りやってたで。

昔は青年団がね、大勢おったで戦後。一年にいっぺんか二年にいっぺんかしれんけど、よう芝居をやっとったわね。わしもいっぺん、小学校二、三年かなんやしゃんの時、子役で出たこともあるんやけど。そうゆう芝居をやってました、青年団がね。

映画でも回ってきよったけど。外ばっかやもんねで映画は、小学校のグランドで映画をやったり。廿屋(ツヅヤ)の方行くと、他所(よそ)の家の角で映画をやったり。それを結構見に行きようたんやね。昔は母物映画とかああゆうやつが多かったね。もう(まあ)おらへん三益愛子とか、ああゆう人が出たやつを結構、そうゆうやつか新しい何本かあるもんで。子供ながら涙を出して(だいて)みとったことがある。

それと、幻(ゲン)燈(トウ)会(カイ)って言ってね、映画は動くけど幻(ゲン)燈(トウ)は動かへんもんで、今でゆう写真がぱーっと映る、スライドで。子供の物語はどうか忘れたけども、そう(そ)ゆう(い)やつを順番で、また続きでやっていって、回ってくる。鹿塩(カシオ)のお寺でやったりするもんで、まあ皆(みんな)、ツーツーツーと、夜歩いて見に行ったり。こっちの、川浦(カウラ)のなんたらの辺でやるもんで、そこまで歩いてね、見に行った覚えがある。絵だけ。やる人がちょっと文句つけてね。活弁士みたいに、ダーと、やるっていうわけやなしにね。紙芝居みたいなもんや。物語で。昭和二十二、三年頃やないやろうかなぁ。ただやったか、お金が要ったか覚えやないけど、ほんのちょこっとやわなぁそら。みんなでトートートートーと歩いて。

町行くとね、紙芝居が来ては飴(アメ)売ったりなんかしとったわね。ずいぶんとそうやって物語を順番。どうでも見に行かなあかんわね。今度どうなるかしらん、こうなるやしらん。ここでは紙芝居は来ない(こおへん)。こんな遠いとこには。みんな自転車やったもんでこんなとこには来てくれへん。ここに来てまでは勘定があわん。他所(よそ)へは見に行かへんけど、それこそ土田(どた)やなんかに行っとると廻ってくるで、そうやつは、ちょっと見たことはあるけれど。

キャンディー売りは来よったわね。アイスキャンデー あれらは遅まで、それこそ、ちりんちりんちりん。夏は冷凍庫に、アイスキャンデー、こうゆう長いヤツや。それを夏はチリンチリン。売りに来たわね。直ぐ(じっ)に(き)食べて(すんでま)し(う)まうんやけど、それ欲してな。そう高いもんやなかったけど、ああいうやつもなかなか買えん時(どき)もあったでなやっぱり。

楽しかったことなんやってゆうとわからんな。なーんもねえなあ。

今は今なりに楽しいこともあるかも知らんけど、またえれえこともあるわな。昔は金の心配はしやへんなんだけど、子供の時分は。ほら今のほうがえらいわな。お金ないとあかへんし。まあ、わしらえらい時期(とこ)済んだけど。何年もねえもんで。二十年も十年もあらへんで。まあ平均年齢すぎちゃった。

【仕事・子供】

仕事

自分ではよそへ行きたい気持ちは全然なかったね。まあこの家(うち)を継がな。立派な家(うち)やねえけど、家(うち)におりたい気はあった。勤めは家(うち)から通おうということ思ったね。学校出ていちばん始めは農協で世話んなって、二年くらいでやめて。それから今渡のほうで。可児市やね、七年くらい勤めたかな。それから、同じような関係した仕事を仲間といっしょに会社を立ち上げて十何年。だんだん年取ってからまた家(うち)で仕事やったり。という生活やった。

世の中が変わってきたのは、昭和三十九年にオリンピックが東京であったけど、あのころから景気というか、なんか金が動いてきた。仕事が忙しなったというか、昭和その時分から世の中かわったような気がするね。高度成長期やから金まわりがようなったちゅうか。総理大臣の池田勇人が、所得倍増かなんかで。仕事始めたときは景気ぐんと良くなった頃やで。機械販売をしたんやけど、まあそれから機械がものすごう売れたんやね。ブリキ屋さんのね、トイ屋さん、バンキン屋さんかな、アマドイや。昔はトイ屋さんもトイかけるかなんかだけやったけど、そうゆう時代から壁にトタン張るとか屋根にトタンとか、いろいろ屋根の仕方も変化してきたもんで。

どこも、みんな「クズヤ」ばっかやった。藁屋根。麦やよ麦わら、スカスカやでね、空気がそうゆうふうやもんでそれやね。みんなどこもそんな家ばっかやもんで。麦わらやった後にトタン被したの、あるわね。トタン外すと麦が出てくる。そのまま被したるで。もう(まあ)たんとはねえけど。三和でも何軒もあるかな。

仕事が増えると機械がいるようになったということで、十年くらいはやっぱり良い(ええ)時代やったね。昭和四十二、三年から昭和五十年頃までかな、家も建ってくるしね。仕事はものすごー増えたわ。被せるような仕事は、昔のことやもんで。二十代(でえ)頃までやないかなあ、あーゆうのもそらそうゆう仕事もそう無茶苦茶なかったけどね

子供

子供は三人おりますわ。最初二十六で結婚したで、翌年一人生まれたし。それから一年おいて一人生まれて。そのあとはちょっと色々あって三人目は六年くらいたってから生まれたかね今の子は。親も一緒やもんで、七人家族か。この家に七人家族でおったわ。別の家建てて住ませる(おらせる)なんてことはなかった。そんな余裕もなかったで。

一番上はもう五十。嫁入り(よめり)しとるんやけど。上が女二人で、一人は川辺へ嫁入り(よめり)しとるんやけど。あと、うちのぼうは、長久手におりますわ。家帰ってくるかどうかは知らんが、今(い)の(ま)ところ(んどこ)会社勤めで、ここは二人だけ。どうなるやしらんが。ほとんど、どこの家(うち)もそんな家(うち)ばっかやないかな。子供もおらん、孫もおらんということは、やっぱみんな若い衆が出てまっておらんてことやで。

なかなか家では仕事をする人はね、そらわしらもうちで十何年機械入れてやっとったけど、年食うと細かい仕事はできんしね。何とか食っていけや。まあ(まあ)そんな(そ)に(お)仕事したくなえし。そらやっぱり子供(こどもん)たあに金がかかるで、やっぱりそれなりに一所懸命やらんとね。子供が小学校の時分は自分たも若いもんで。なんとかしようちゅう気もあってそらあ色んな仕事をしたんやけど。大きな儲けはできなんだけど。なんとか食ってだけは。

親は、子供おれば、それなりに一所懸命やって子供に不自由(ふじゅう)させんようにしてと思って、自分は少し不自由(ふじゅう)しても、そうやって他人に迷惑かけん様にと思ってやってきたんやけど。

【町のこと】

合併

昭和三十四年が伊勢湾台風やったもんで、その時は学校もう出とった。わしが十九か、そのとき台風やった。おぼえあるかね。

二階で寝とたんやけど、ものすごく(すごお)ここ、ぎゅーぎゅうぎゅうぎゅう、ゆれたんやけど、その次の日が、県の体育大会やったんやわ。そこにいかなん日やった。柔道の試合で、美濃加茂から籍移して川辺町代表で加茂郡大会で優勝して。二十六日が行く日やったんや。昔は単車もねえし、自動車ももちろんないし、自転車で峠を越えて川辺駅、汽車に乗りに行ったら汽車はこえへんし。そうゆう時代もあったわえ。昔は地道やったもんで、いまのように舗装したらへんでよくパンクしたわ。

昭和二十九年は川辺の中学へ一年だけ行っとった。今ここの下に保育園があるわね。ほんでそこが最寄りの中学校やったけど、合併の関係もあって、三年生の時だけ川辺へ通っとった。組合(くめ)立(りつ)ができたもんで。ここ日(ヒ)西洞(サイボラ)と、川浦(カウラ)と、川辺といっしょになって。

三和になる前はここも川辺やったんや本当は。あの川境でこの奥のほうは。うちのすぐそばまでもずーと。今でいう川の流れでほんのちょっとしたところで、山側は川辺町やでね。この上の観音さんがあるんやけどあそこに。日(ヒ)西洞(サイボラ)。川辺町浅川村か加茂郡浅川村かなんちゅうか書かいたるで。

美濃加茂市ができたのは昭和二十九年。鹿塩(カシオ)ちゅう部落は、それまで三和といっしょやったわね、そこは二十九年の時には川辺につくっちゅうことになって。ここら辺は、学校から上(かみ)は美濃加茂市に合併反対やったんや。つくなら川辺につくと。そうゆう関係があるかどうか知らんが、当時美濃加茂市合併は反対やった。ただその時にここは、地域的には学校があるし、役場があるし、農協があるし。三和のここがはいらんと、3万ならへんもんで、美濃加茂市の合併がむつかしなってきたっていうことであったと、聞いたんやけど。わしらは、そうゆうやつがいいか悪いか。何の気もなかったんやけど、そうゆうことあったやね。結果、よかったか、悪かったかわからんけど。

人口減少

この地区でもその時分、廿屋(ツヅヤ)村と川浦(カウラ)村と峠超えた鹿塩(カシオ)村が一つになって、一つの三和村になってたんやね。そうゆう関係で、わしら五十人位おったよ。小学校の同級生が。今は小学校全学年で二十三、四人。ほらーだいぶ世の中変わったね。そこの他所(よそ)からの市営住宅に入った小学生四人を入れて、そんだけしかおらんちゅうことやで。保育園行く子が、二軒かそこらいるかな。ここの若い衆らみんな出てってまう。

まちづくり協議会ちゅうのがあって、そうゆう子を連れてきたり、家族をね。一生懸命やっとくれとるでありがたいなと思っておるけど。こっちの子が出てまってよその子をつれてくるなんておかしな話しやけど。

でも住むだけやないかな。一人はここで喫茶店やっとるわね。その子ぐらいであとはみんな外に勤めに行って。いつまでもやっぱりここにおるわけやないで。市営住宅にいるとやっぱり。うち作って出てく人もあるし、まあそらしゃあないわなそれは。そう人もあるし、仕事の関係で変わってく人もあるし。いろいろね。

自治会・消防団

ほらやっぱり自治会に大勢おると、どんな役にしても順番でなかなかまわってこんこともあったけど。今は人が少ない(すけない)で、役やってばっかおらなん。今年はこんな役やったんやけど今度順番来ると次の役が来る、ということで。ほんで自治会の役も減らけーたもんもあるやろうし。それこそ婦人会もだいぶ前にやめたんやないかな。

やっぱり田舎はいろいろな付き合いってものが、わしは一番大事やと思って。消防団にしてもなんにしても。そう(そ)ゆう(う)やつは、一所懸命やらしてもらったわ。今は入りたない人がけっこうあるらしいけれども、あの人の後は、自分たが入らなあかんと思って。そうゆうつもりで、おったんやけれども。入らん人がおるでね。これだけは、入りたねえ。入りたねえで出ていきたい。入らなならんくらいやったら出ていきたい。という人が、結構あるような風やね。自分らの町を守るのは、人のためやない。自分のためやでね。わしが思うと残念な気持ちやけど。人数がやっぱり確保できんでね。伊深もやっぱり人が少ない(すけない)もんで。五年位前から伊深三和でひと分団になっとる。たまたま中学も一緒やもんでまあ、知った人(じん)ばっかやもんで。そうゆう点ではまだやりやすい。

小学校

人が減ったのはやっぱ寂しいね。市営住宅までこっから千二、三百メートルあるかな。通学の子供らをそこまで迎えに行って学校まで歩いている。子供のためでもあるし、自分の運動のためでもあるんやけど。そうゆう仲間が二、三人おる。奥の方から学校のバスで送ってくるで、住宅で降りて、そこからは歩く。学校の半分くらい、十一人かそこら一緒に歩いてくる。毎日子供の顔見るっちゅうことはええことはええね。親さんとは、朝顔を合わせることはないけど。なかなか、途中であってもわからん。他所(よさ)やとゆうと、角々に立って見守りやってる人はあるわね。一緒に歩くのは、他ではちょっとないかもわからんね。歩く間に学校の話をしたりなんかするときもあるし。その時その時いろいろあるけれども、わしらちょっと行かんとゆうと、子供んたが、「だれだれさん今日来て見えないね」って、という話も聞いたことあるけど。子供はそんな風に気にしおることもあるかもわからんね。

廿屋(ツヅヤ)からは、柴田のりあき君がやってる。のりあき君が一人やな。

学校が田んぼ作っとるんやわ、ちょこっとやけど、四畝くらいやけど。餅米を作っとる。わしと、もう(まあ)一人(ひとり)、二人でその田んぼを面倒みとるの。苗は作るけど、植えるのは子供が植えて。稲刈りをして。餅(も)米(ち)は機械乾燥でできやへんもんで、はざかけにして。ほれから脱穀(ダッコク)をして、精米所へ持ってたんやけど。籾(モミ)刷り(スリ)に持っていかなんもんで。こないだうち全部済まして(すめーて)納めたけど。小学校の五、六年生やね。六人から五人の時もあるし、子供少ない(すけない)で。そうゆう子と一緒に田植えしたりなんかしてそうゆう関係もあるもんで。

四畝の田んぼで、二俵ちょっと。百二十何キロ位。毎年、十一月の二十日過ぎに昔から餅つき大会をやっとるの。杵つき。去年は中止したけど。健寿会とか、保護者と、子供(こども)たち(んたら)も一緒に丸めて(これやって)、あんころ餅(モチ)やら、きな粉餅(モチ)作って。まあ今年はちょっとわからんけども、こうゆう時やもんで。何とかやりたいね。本当にね。やれるとええと思っておるんやけども。続けていければええやないかしらんと思っておるんやけど。

友人

一緒に手伝っとるのは、近所で昔からの仲間やけど。同じ年やけど、わし七つあがりやもんで、昔からの連れで、何もかも一緒にやらしてもらっとるで。そら、おい、お前の関係で。この集落の中やもんで。昔は子供時分の仲間は、いっぱいおったよ。同級生でも亡くなった子もだいぶおるね。昔からの家(うち)だけでも、この集落だけで十六、七軒あったんやけども、家(うち)は残っとっても、出てっちゃって、もう来んって人もあるし。他所(よそ)におっても、こっちの付き合いをしとる人もある。その子供たあになるともう。自分の居(お)るうちだけはっていうことで。新しい来た人、こんで四軒か、五軒。家(うち)作ってきた人らあるわねそこに。その人んたら入れて十軒くらい。まあ今の若い人と一緒でだいたい(でーてえ)、むこうの家(うち)作ってまって、仕事の関係もあってね東京のほうに行った人もあるし、偉い(えれえ)人になっていった人も色々あるでね。みんな出てってまって、はよ死んだ子もおるし。ちょっと長生きしても、ええか悪いかわからんようなことやけど。仕事も大事やけど楽しいだけが得やでと思っとるんやけど。

思い

学校なくなると、困るけど子供おらんことには、うーん、「ふうぜんのともしび」やなと思うけど。まあ子供が増えるちゅうことは考えられへんで。ま遠いことやないと思う。学校がなくなるのも。子供おらんことには、あかんやっちゃもんで。

どこでも小学校あってこそ、それぞれの地域はやね、まとまって。中学はいいけど小学校だけはやっぱ。小学校がなくなると、その地域は終わりになると思う。やっぱ小学校が一番大事やね。街中でも小学校なくなるとこがあるんやけど、年寄りばっかになってまう。はやなっとるんやで。

やっぱりまあ人がほしいね。仕事は勤めればいいけど。とにかくここに、おってくれる人が欲しいね。それ(そん)だけ(たけ)が、それが一番この町が良く(よう)なっていくかいかんかっちゅうことやないやろか。人がおらんことにはやっぱり。まず人、人が大勢ほしい。そのために今、まちづくり協議会ちゅうのが、一所懸命活動してくれておるで、そうゆう人にわしらも、期待をしとるのやわ。自分の子を他所(よそ)へ出しといて人に来てもらいたいというのはちょっとおかしなことやけど。

【猿】

猪鹿

畑は今は食べるだけ。荒れ放題やで草刈りに行くだけ。これがえれえやで。何にもならんどこを、近所に迷惑かかるで、草刈るんやけど。そこでナスビをちょこっと食うだけとかやっとるんやけど。

ここも猪が来るし、鹿も出るようになった。わしは見たことないけど。カモシカもこないだすぐ(すん)そばに出て。写真撮ったやつを見してもらったけど。 上(かみ)の方では、高いネットをね、補助もらって自分たでやるということで、だいぶやって。この辺はまだ鹿が入ることはないけど猪はやっぱりくるで全部、電線(せん)で。なにもしてねえと水田に入いってってもう、ぐちゃぐちゃに荒らすもんで、なんともならんようになってまうもんで。昔はイモ作っても何作っても猪の心配はしなんちゅうこともなかったけど今はまあ、もうだめやね。人が減ったこともあるやろうし、山にもあれやな、物があるのかないのか知らんけどもだんだんだんだんと、里へくれば楽に食べもんが取れるかもわからんしね。

それから猿が来るもんで。そういう味を覚えると、普通のままでは全部猿にとられてまうで。薩摩芋でもなんでもとられてまう。ひいてまうもんでね、なんにもできへんもんで。おっかの在所が蜂屋やもんで、蜂屋に畑作ったるんやて。それこそ食うだけやけどね。作って、子供らに分けてやるだけやけどね。

蜂屋は猿も猪もちょっと山へ行かな出ない。この辺はもう美濃市(みのまち)と一緒で猿の軍団がやっぱりくるもんで。その点では、この辺はなんもできんということで。二、三十匹の軍団が来るでね。人には危害は今のとこ。追い払えば(ぼえば)逃げてはいくけど。

干し柿なんかでもね、猿が来ると渋いで、ぱっと捨てて(ほかって)しまう(まう)。渋い奴は。三十個作って(つくった)あって(って)も(も)、三十個減ってまうっていうことで、数はなくなっていきようったんやけど。茄子でも胡瓜でもなんでも、全部取られちゃうでね。そんな喜んで食うわけやねえ、そう美(う)味い(めえ)ことはねえで、半分かじって放(ほ)かってまうでね。醤油をつけて食えばうまいかしらんが、そのまんまでは。椎茸なんかでも、軸しか食わへんでね、全部傘からなんから食ってくれるとええけど。生えとる軸が一番うまいやろか。傘は捨てちゃうでむかつくんやね。大きなっとるやつでも放(ほ)かったるで、ええやつは拾ってきて焼くやなんかでもせな。なんかそこが一番やっぱ栄養があるのか、そこがうめえのかしゃん、傘喰えへん。猿は高いとこでもなんでもとってくでね。山之上へ行くと困っちゃうんやけど、まだいっとらんでいいけど。梨なんかのう。そう(ほ)なる(っ)と(と)やかましくなるやろうけども、あっちへ行かへんで、まだそれほどやかましいこといわへんのやけど。

今年八月ごろからかな。猿がちょっとも来ない(こん)様になった。この辺は、今年は柿のなり年でいいぱいなっとるんやけど、普通やったら順番片っ端から、柿食ってまって。渋柿でもなんでもやってまう。猿はこの二月(ふたつき)くらいこんようになってまって、逆に心配しとる。今は、山に餌があるのか、どんぐりがあるのか。

【裏山の坂の上にて】

おカメさん

おカメさん見たければ、上まで一緒に行くでいいわ。
もともとはアン寺か、元はね。女の人がおった尼寺。
亀に似た石が祀(マツ)ったるで、おかめさまって、いうんやけど。
元のお寺の名前はちょっともわからんのやけど。
すべるやろ
おまつりは十月十日。組じゅうでお参りして。
子安観音になっとるもんで、孫や子供の名前で餅をお供えして。
それで餅を撒いて。
今年と去年はコロナの関係で。
登って。どうもねえよ。
お亀さまの石っちゅうのは。この石やけど。亀の形しとるで。
撮るやったら、ちょっと暗いか。電気つけよか。
これもいつからあるしらんけど、おカメ様の石で。
これもそうなんやけど。
ほれとまあ一つが。これが。
わしが山へ行ったらこれがあったで。拾って祀(マツ)って。

これも集落で建てたんやえ。このとこ見ると。ちょっと汚れているでわからんけれど、ここに、明治二年。浅川村とかなんとか書いたるんやて。川辺町。ほんで日西洞って名前入れたるんやけど、日西洞組で石をあげた。これは、寄付してもらったんやないかな。それを組中でここへ運んだってことになっておるんやけど。

葬式

お墓があるんやけど。ここの集落のお墓。日西洞。、土葬ばっかりやったでね。家で告別式やなんちゅうやな、別れの式やって。ここへ来てここで、葬式をやっとったんやね。ほんであの下の石が昔はここにあったんやわ。石(れ)に棺桶を。昔は立棺やったけど。乗せて本当の葬式をここでやって、担いで、ここ三回まわって、なんかしてね。昔のやり方やね。

うちの親父は土葬したで。うちの親父が一番最後やったか。三十三年前ぐらい。それが最後で。本当はまあ火葬でもよかったんやけど。

親父が「おれは、ま、熱いやつはあかんで、ここで」なーんて言って。

村中歩いて、そらもう昔は行列は長かったでね。後旗(あとはた)や、前旗(まえはた)や持ったり、なんや持ったり。何人かでね。親父は八十五やったで、目出度いっていうことはないけども、まあ惜しいこともないわな。そん時は、お金をね。花籠。 あれを十円や、百円やを包んでね。皆(みんな)にひろってもらうっちゅう。それをやったわ。花籠やね。竹で編んでね、そいつを入れていて、揺らす(ゆする)と(ち)落ちるようにする。どこでもやっとるんやねえ。他所(よそ)のことはわからんけども、そんな感じでやっとる。今でも葬儀場なんやでも、ちょっとちょっと、やる人もおるね。

帰り道

猿はこの二月(ふたつき)くらいこんようになってまって、逆に心配しとる。
今は、山に餌があるのか、どんぐりがあるのか。
蜂屋(はちや)柿(がき)は今年はどこもいっぱいなっとるやろ。
いろみがはやいで、まあそろそろそろ採ってもいいかもわからんけれど。
ちょっと早いもんで。暖かいもんで。
今干すとカビちゃう。
ひねらんうちに、あかんようになるとあかんで。
干したとこもあるけど、カビちゃうで。
あれはマンガン。マンガンやであれ。
あれも干すやつやね。あれもうめえ。

 

 

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