千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 田口 勝司さん】

自然と共に生きる

自己紹介

 名前は田口勝司です。昭和12年11月に生まれました。
 職業は農業と林業です。夏場は稲作などの農作業、冬んなると炭焼きしたりとか、山仕事が中心です。生まれてからずっと、岐阜県加茂郡東白川村に住んでいます。

仕事道具

 仕事で使ってた道具は色々。チェーンソーから集材機もやったし、「木馬(きんま)」もやったな。
 木馬って知らんやろ?「そり」のことよ。そりを溝作ってね、それで木材を移動させたり、他には戎馬(じゅうば)(荷役用の馬)で土田曳き(畑を耕すこと)とかやっとったね。
 この仕事やってて悪いなって思ったことはなかったな。ほんとに収入もあったしよ。今よりよかったなあ。あの当時は木を切るのはノコギリやったで1日900〜1000円くらいやった。でも製材いっとるやつは120円やったぞ。ほんで木材切りは、かなり良かったでな。その時のわしは60年前のことやけど、チェーンソーを買ってきたんやわ。
 そしたらみんなノコギリで木を伐り倒してる中、、1人機械使ってやるもんで、周りの10倍以上切れたんよ。その時に万って金とったんやわ。製材やったら120円しかならんに万って金とったおかげによ、ちった~いろんなことできたわ。
 木を切って出すときに、木馬道(きんまみち)を作ってな、木馬で出した。あの当時は靴のスパイクがなかったんや、だから、わしは雪の中滑ってってよ、そしたら木材が当たって肋骨(ろっこつ)を2本ばか折られたわ、大きい怪我になんだでよかったけど、体でブレーキを締めてこんといけないから、あれで刺されてだいぶ亡くなった人がおる。場のいいとこは馬ぐらいのスピードで行ったよ。普通の時は歩く程度やね、これは危険で技術がいるな、冬の仕事で雪が降ったりするもんで、余計に危険。架線(金属製のワイヤーを架線に使った集材方法)は50年か55年ぐらい前からやったな、木に登って準備せないかんし、ワイヤーを引っ張らなやしよ、大変や。
 初めはウインチが逆回転なかったもんで、降ろすのに難儀(なんぎ)やったわ。ブレーキを締めて降ろさないかんもんで、よくワイヤーが傷んだわい。そしたら森林組合の人が逆回転のやつを持ってきたもんで、それに変えてからは調子よかったな。

実際に使用していた木馬

林業

 やっぱり手作業より機械やわな。機械が入っただけで何倍よ。草刈り(下草刈り)もそうやな。手で刈るよりも10倍、20倍の差があるで効率がいいわな。
 丸太を出す時、柱は3mと4mと6mやったわ。
 大体標準の柱はヒノキの3m~6m、スギは4mが普通やったね。6mで切ると9万で売れたで、それで6mに切って出したわ。一方無地っていう節や傷がない材だと12万した。1本1万円の美林を目標に手入れをした。樹齢40年までは枝打ちとか間伐とか手入れはかかるけど、そのあとはほとんど何もせんでもいいでね。
 雨が降った時と雪が降った時は、下刈りと枝打ちに行ったわ。1963年は特別で、この年はずっと3月の中頃まで除雪作業やったよ。製材もよくやったな。
 今須(います)(岐阜県不破郡関ケ原町今須)は杉の造作材をやっとった(今須杉)。枝打ちもそこから習ったでな。300年生ぐらいのヒノキが何本か立ってるわけよ、そのやつを1年に何本か切ってよ、裕福やったであの当時は。

木材の価格

 9月になると材質が良くなるもんで、あの時は一生懸命やったなぁ。夏はほとんど農作業やったけど、農作業がちょっと片付いた時にトラック一杯だけ木を切って出すとか、そんな程度よ。大きい山持ちは、ほとんど山のお陰やけど、お金入るで、農業と林業を両方やるってことはやらなかった。けど、10町歩(ちょうぶ)とか20町歩くらいの人はだいぶやったわ。
 持ち山が大きい人は全く楽やったでな。ちょっと切りゃ500万や1000万出るもんでよ、そんで左うちわで昼間でも本読んだりしてよ。あの木が高い時に切って貯金しときゃ、今楽んなったけど、そうしちゃなかったなぁ。ここまで価格が下がるとは思わん。やっぱり生活費ぐらいは仕事で働いてとらんとあかんわい。
 今全部金になることはなるけどな、安いだけで。今ヒノキの高値で立米(㎥)7万くらいやないか?40年前の10分の1やなぁ。高度経済成長の昭和63年からバブルの弾けるまで高値で70万、80万いったな。そのときゃ稼いで稼いで、4tトラック一杯100万だからな。ほかにもマツは、前は高かったな。今は10mの24cmくらいのやつでも2万くらいやないか?前は1mで1万やったでな、10mで10万いった。昔ははり丸太でつかっとったけど、今は建築様式が変わってきたで安いんやな。1本今はそれぐらい変わってきたな。

お家

 大工が面倒くさいもんでやらんだ。ほんで丸太を使わんで、ほとんど角材を組んでやっちまうでな、大工は困るだ。いま屋根は楽やわな、大工は難しかったぞ、今は大工は稼がないわ、箱のような家やで。そんで特に材は安いんよ。中島(なかしま)工務店は神社とかお寺とか作るもんで、ほんでいい材を使う。宮大工を高山(岐阜県高山市)から連れてきとるもんで。ほんで東京の方面から神戸の方面からよ、かなり造っとるぞ。
 ここにない材はそれこそ西垣林業(にしがきりんぎょう)から買うんやわい。
 大径木は少なくなったな。1番大きい木はモミやったけど、元は1m50やったわい。ナラなんかも1 mくらいのやつあったなぁ。200年300年経ったやつだと神社とかに使うけど、今はそんなの少なくなったな。ここらだったら100年くらいの材しかないんじゃないか。今、全体的に見て100年以上って木は少ないぞ。

植林

 植林は40年くらいのうちにわしゃ6万5000本(苗木を)植えたわ。それと買った山も植えたとこあったもんで、だいたい10万本やなぁ。10万本やけど間伐して3分の1として、3万本ってことやわな。マツの植林はダメやったな、アカマツだったけど、実がなっちまってよ太ならん、素直に育たなんだな。それで植林したのを全部切ってまってよ、スギやヒノキに植えなおいた。
 ここの村長が森林組合長の時に、一生懸命昭和30年ごろから植林を始めて、1年生苗を森林組合で、無償でくれたもんで、それを畑で育ててそれで植えた。3年生で山持ってたけど、大きいやつは2年生で植えたわい。2年生で20cm~30cmぐらいやったな、それで下草刈らんとやら?雨降りは下刈り、雪ふりゃ枝打ち、休んどらんかったぞ、若いうちは。
 吉野(岐阜県関市吉野町)の方は山が畑みたいやったな、町歩1万2000本植えるって言ったわい、ここは(東白川村)3000本やったわ。間伐で化粧丸太をモノレールを入れて切って出しよったわけよ、直径5cmぐらいの太さの時に間伐するんよ。
これ(写真)化粧垂木(けしょうだるき)って言って、磨いて垂木にする。家のは全部自分で磨いて作ったで、材料も全部自分でやわった(準備した)。全部山から切り出して賃挽きして、10年かけてやったわ。関ケ原(岐阜県不破郡関ケ原町)へ山の視察に行ったらよ、田んぼの畝(うね)にも植林してた。   

名人宅の化粧垂木

苗木と食害

 あの当時は(植林した苗木の食害は)なかったな。最近はもう鹿にやられてまう。あの当時は野ウサギぐらいやったな。ウサギがヒノキを切ってよ、でも今は少ないなぁ、野ウサギがおらんやろなぁ。カモシカ(ニホンカモシカ)はここまでくるぞ、カモシカがここらは1番多い。             
1968年か、山の頭に糞が固めてあって、猟師の人に「いったいこれは何や?」って聞いたら「カモシカや」って言ったわ。国が保護しちゃったもんで増えちゃったんだな(特別天然記念物指定、昭和30年)。
 今は山に2mぐらいのフェンスを張らんとカモシカは飛び越えて入ってくるでな。昔じゃ考えられんことやわ。

下刈り

 下刈りをやらんと、木が育たんわい。2mぐらいになりゃどうにかほかっといても(放っておいても)、いいかもしれんけど、酷いとこは1年に2回刈らにゃあかんよ。クズとか、マタタビとかのツルがあるところは酷いね。50年前は機械なんてないで、鎌やったでな。鎌もなかなか買えなんだでな。買えるまでは小さい鎌でやってた。わしが最初下刈り鎌を買った時は360円やった、500円しか小遣いもらえなんだで高かったな。当時は笹より雑木(ざつぼく)が多かったな。

下刈り鎌

間伐と山抜け

 昭和30年ごろから植林して切る木あるに、間伐が遅れてるんやな。他の下呂市やとか白川町なんか行くと、下刈りやめてそのまんまの山があるんやわ。竹藪(たけやぶ)のように立っとる。
 間伐しても太らんわな。木も根を(土壌に)張っとらんで、今の災害に繋がっとるんやな。間伐は大事やわ。植林をしても間伐をせにゃダメよ。間伐の間隔は、最初に切り捨て間伐(切った材を林内に残して置く間伐の方法)をして、40年ごろから利用間伐になる。昔は薪に使ってたのは広葉樹、自然林やった。広葉樹切って針葉樹を植林したもんで今はほとんどなくなって、もうほとんど人工林やわ。広葉樹じゃなく針葉樹をもっと使っとったら災害も起きんやろな、天然林やで。
 ここじゃまだ山抜けしたとかはないもんでいいけど、間伐してない人工林の山は災害とかになるんやわ。人工林はだいたい40年生で1500本くらいにしとかなあかんわ。1ヘクタールでな。それから間伐してって、最終的には700本、800本にすると良い。
伊勢湾台風(1959年9月26日)の時は酷かったな。だいぶ山の木は折れたしよ、マツなんかだいぶ折れたしな。

材の特徴

 建築の関係では、スギよりもヒノキの方が強度はある。今、天井の横物はスギを使うわいな。昔はマツやったけど今は使わんな。だいたい80年から100年くらいの木だといいよな。割れんし、バカ木(曲がった癖のある木)はあかんな。

ヒノキの産地「東濃」

 ここは東濃ヒノキの産地やで、ヒノキが多いね。(聞き手の出身地の)天竜はスギやろ?当時天竜木材は、スギを割柱にするでって言って九州に持ってったな。
 当時やけど、九州はヒノキを嫌って使わんかったな。当時の良いスギっていいたら天竜やったな。でも昔からヒノキの方が高く売れたな。付知(つけち)(岐阜県中津川市付知町)なんかは天領やったもんで、江戸時代は家にヒノキを使えなんだでな。ヒノキを切りゃ命と引き換えぐらいやった。お城やとかよ、神社とかそういうところにしか使えなんだわけよ。普通の民家は全然ヒノキを使えなんだでな。中津の付知に伊勢神宮の神宮美林っちゅうのがあるだよ。そこは今も神宮用の材やで今も切れん。
 それと長野の上松(あげまつ)(長野県木曽郡上松町)とかな、そこも神宮美林になっとる。神宮は20年ごとに建て替えてくでな(神宮式年遷宮)。結局昔からの技術を継承してく意味もあるやろな。壊した材は他の神社に持ってくぞ。
 名古屋城に御殿を作ったわい、それなんか木曽ヒノキやけどすごいぞ。ヒノキの最高級材を使っとる。賃挽き(ちんびき)(製材賃をいただいて希望の材に挽くこと)をするとこの辺が1番材質がよかったでな。製材してみるとようわかるんや。風が当たらんとこは素直に真っ直ぐに育つもんで材質がいいわけよ。風が下からザーッと通ったようなところはやっぱり風があるもんで材質がよくないな。

林業に就く若者

 製材なんかコンピュータやで木材を入れりゃ挽いてくれる。機械を使うのには若い人たちは喜んでくるな。
 山に入っての仕事はほとんど元(木の根元)をチェーンソーで切るだけやな。あとは重機が入れるとこなら重機で切っちゃうわい。傾斜がきついところは、重機で切るのは無理やわな。そうなると山仕事がキツい仕事ってなるから、若い人は機会があるより飛び付かん。

農業

 手作業ばっかやったでえらかったよ。自分は手前で(自宅の田畑)35年有機栽培で化学肥料使わんで。自然に逆らわずにやるのがいいよ。

食害

 シカとかの動物の食害っていうのは、うちの方はないけど、(念のため)フェンスで囲っとるわい。下呂市の方ではシカとか出るけどな、フェンス張っとっても飛び越えて入ってきたり、サルなんかは近くに立ってる木を登って入ってくるらしいよ。

 蚕室(さんしつ)で蚕を飼っとった。わしんとこは、繭(まゆ)で出荷してた。当時な、群馬県に持ってったぞ。それまでは中津(岐阜県中津川市)に恵那繭糸(えなけんし)って製糸工場(せいしこうば)があったんやわ。そこに出しよったけど、わしは組合長やった時に、この当時な1730円やったかな、日本の繭の最低保証が。それで中国から150円で入るっちゅうたもんで、あかんでやめまいかって言ってよ。恵那繭糸も平成5年ごろやったかな、役員会議で相談して辞めさせたもんで、従業員に退職金やら一切払って片付けたんやわ。

【聞き書きを終えての感想】

 何もかもが初めての体験で、緊張しっぱなしの聞き書きでした。田口さんと初めてお会いしてインタビューをした時は何から話せばいいかわからずに戸惑うことがありました。しかし、田口さんご本人や、田口さんの奥さま、そして担当してくださった役場の樋口さんがフォローしてくださったことで、何とかお話を聞くことができました。1回目の取材では農林業についてたくさんのお話を聞かせていただきました。また、田口さんと共に過ごした貴重な林業の道具たちを前に、当時の風景がより新鮮に感じられました。2回目の訪問では1回目では聞き逃した農林業の内容について深く聞くことができ、貴重な多くの写真を撮らせていただきました。
 私は今、高校で林業を専攻しています。名人とのやり取りの中で林業に関する知識だけではなく、山にかかわる職業人として大切な多くのことを学ぶことができました。聞き書きの中で最も印象的だったことは、「山を守り、木を育て、次世代に継承していくことの大切さ」です。今、世界規模で大きな問題となっている地球温暖化を救うためにも、森林にできる役割は益々大きくなっています。その問題を改善していくことができるように、名人のスピリッツをもとに森林の大切さを多くの人に届けられることができればと考えています。2回という少ない回数でしたが、名人のように地域林業で活躍できる職業人になりたいと再認識した聞き書き体験でした。本当にありがとうございました。

PROFILE

田口 勝司(たぐち かつし)さん

生まれも育ちも岐阜県東白川村。皆がノコギリで木を切っていた60年前、当時最新のドイツ製チェーンソーを、愛知県まで行って山仕事に導入した地域林業のパイオニア。人に使われることを嫌う分、大きな仕事以外は何でも一人でこなしていた。山仕事に関わる集材機やチェーンソー等、新たに登場した機会にいち早く注目。最新機器について自ら勉強して駆使し、第一線で活躍してきた。高齢になった一昨年まで、キャタドラ(クローラキャリアダンプ)を使って山に入っていた。足が悪くなったために止めた山仕事ではあるが、山の状態を見るために今でも足を運んでいる。山に学び、山と共に生きるためのノウハウを、なんでも知っている山の名人である。

取材日:2022年9月28日、11月26日

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