千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 小池 彼男さん】

茶と共に生きる

自己紹介

 小池彼男と言います。年齢は85歳になるのかね。茶にかかわっていくことになった経緯は、大山中学校を卒業した後、父の家業である農業を手伝うことになったのよね。その後、農業からお茶づくりに変えて、白川のお茶づくりに微力ながら携わっているのよ。平成10年、JA美濃加茂の理事に就任したのよね。他にも、平成13年、白川茶会連合会副会長に就任したりしたのよ。で、平成14年、全国地域特産物マイスターにも選ばれたりしましたね。そんな感じで全部話すと長くなるから、こんなもんにしとこうかね。

一人の女性

 僕は今の昭和12年に生まれておるもので、小学校2年生というときに、終戦になったものだな。戦後から3年たった小学5年生のときに僕の人生というこの農業をやろうということになった。そこから僕の仕事が始まるでな。ほんで、そのきっかけは何かというと、戦後で食べるものがなくて、家から、5キロ裏へ離れた金山という町から30代ぐらいの女性が、白川の宇津尾まで、自分の着た服とか新しい服とかそういうものをもって、食べるものと、物物交換をしてもらえぬかと来たのや。その女性は、子供になんとかして白いご飯を食べさしてやりたいと、けれども、その米も配給のときしか貰えなかったので何とかしてほしいと、そしてどこへ行っても米を分けてくれるようなとこはないのでな、それを探して、ずーっと5キロもあるとこを歩いてきたんやよ。ほんで、僕らも幸いなことに、田んぼや畑を作っておるもんやで、米も、何とか食べる量ぐらいは確保しとってたんや。でもその時代は米を作ってる人でもなかなか米がなかった時代やった。そんなときにその女性が、何とかして子供に1回白いご飯をおなか一杯食べさしてやりたいと来たもんやで、僕の親父と母親と2人で、何とかしてやろかということで、欲しい服ではなくても服をもらって、米を分けてやったのやな。そしたら、喜んで帰ろうとしたときに、親父が帰ろうとしていたのを引き留めて、かぼちゃの最後のほうになる食用にするには食べられるようなものでもない末成り(うらなり)を、あんたらこんなもんでもよけりゃあ持ってって食べんか、と捥(も)いでいったら、とても喜んで、もらっていっていいのですか、お金はいいのですか、というもんで、そんなものお金はいいが持っていけるもんじゃないよ、といったら、涙を流して喜んだ。そうしたら米とかぼちゃが重いもんでな、それをほんとに大事そうに持って、歩いて帰っていったんよ。それを僕が見とったのだな。それで、その5年生の時に、農業をやって食べるものを作らなだめだという決心が生まれたのやな。それが僕の百姓をやると決めたきっかけやな。その女性の姿は今でも覚えてるのよ。末成りは今でも家畜に与えるようなものだけども、それを嬉しそうに持って行った姿はすごく頭に残っているのよ。

手もみとの出会い

 その後はいろいろやったよ、養蚕が主体だったんやけど、まず食べるものから作るっていうのが一番の原則だった。もちろん戦後やもんで、麦とかさつまいも(さつまいもはそのころは主要な作物だったでな)、さつまいもは蔓まで食べた。そういう時代だったのよ。だから、食べれるものをまず主体に作って、ほかの畑には養蚕をやっていたもんやで桑の木があったのやな。それで、すべてを養蚕のために使ったのよ。その畑の周囲に多少スペースがあったもんやで、茶の木が植えてあったのや。ほんで、そのお茶を摘んで、親父がそのお茶を(機械も何にもないから)手もみでお茶をもんどったのよな。そうして出来上がったものを、売って金に換えたりして、生活しとったのやな。その当時は真夏にふんどし一枚で手もみをやっている親父を見て、そのお茶をもむっていうことは手伝ってやったこともあるけども、自分にはできるような仕事ではないなぁ、と思っていたのよ。でも、その何十年後かには手もみの保存会の会長になっているわけな。これが人生の面白いところよ。

お茶をもむ小池さん

変わらなければいけない

 話は変わるかもしれないけど、中学校卒業するころに、野球選手が1人の女性にインタビューするのを聞いたんや。どういう話かっていうと、その女性は、行商人で、魚かなんかを近くの農家やなんかに売り歩いてのやな(その当時は長い距離を一歩一歩歩いてお宅を訪問し、売っていた)。そして、その女性がこれはお金を稼ぐにはあまり良い手段ではないと思ったのよ。そして、今でいうスーパーなんかを開こうと思って始めて、最後は立派な店を立てたのよ。その女性は有名な有名なパスカルの言葉を引用して、「人は考える葦である、そのため、考えなければならない」といったのよね。その時代はほとんどこういうことはなかったもんで、その野球選手は大変驚かれていて、その驚きのまま、インタビューが終わったのやな。僕は、これからも農業を続けていくにはどうすれば良いのかを考えてたときに、卒業して、金に換わるものを作らねばいかんということで、お茶に目を付けたのやな。

お茶の時代

 当時のお茶は一つ一つ人が摘んでいたものを手でもんで、販売しとったのやな。さっきも言ったけど、これは大変な作業だし、しれたような金額しかもらえないから、なんとかせないかんなということになったわけよ。ちょうどその当時、白川にもお茶を広めたらどうだと思う人があちこちで出てきていたのよ。その時に静岡から、やぶきたというお茶が入ってきたのや。そのやぶきたという品種のお茶を導入して、増やしたらどうだという話があって、ほんで、静岡から先生をお願いして、挿し木(お茶の増やし方)の方法を学んだわけ。それから、ちょうどそのころには苗木も静岡から買っていたもんでな、その苗木をもとに穂木と言う、お茶を摘まずに残しておいた枝を畑に刺したわけだな。そうすると、またお茶の苗ができて、そこからお茶がまたできるのやな。実際には穂木は1本の枝から2、3本取るんだけども当初は育て始めたばかりだから、1つの枝から1本しか取れないこともあったのよな。それをどうにかしようと研究して、植える量も増やしていったのやな。

お茶の発展

 その時代はみんな手摘みしかやらんかった時代やから、何とか楽にできないか考えたのよ。ほんでその時代に静岡では、はさみを使ったお茶の摘み方が行われ始めていたのやな。そんな話をどこかで聞いたから、静岡を見に行って、これは手で摘むよりはいいやと思って、それを取り入れたわけやね。その後も静岡では、だんだん機械が(摘み取りを)やるようになっていって、機械摘みって言う、刈り取る機械を作ったのやな。これがありゃどんだけでもできるわけだけど、やるためには工場を作らにゃいかんということで、茶工場を作ったのやな。でも、その時代も本当にお金がなくて、機械なんて新しいものを買おうと思ったら金がかかるんで、よそで使われなかったと思ったものを集めて、工場を作ったのよな。この作業は本当に楽しかったね。みんなで一丸となって工場を作ってと、まるで子供のころに戻ったような経験だった。そして、これなら量も作れるだろうということで、山を開墾して、整地をして、そこにお茶を植えて、だんだん茶畑が増えていったのやね。そして、工場ももっと立派ないい工場にして、大きな機械を入れないかんということで、宇津尾(うつお)というこの集落が一丸になって、工場を作ったわけ。そうやって、だんだんだんだん機械化していったわけ。今は刈り取りも全部機械でやるようになってるのやな。そこまで、来たわけやよ。

手もみ

 昔では僕も随分いろんな役職をやらせてもらってきて、その時期にちょうど、手もみが入ってくるのよ。最初に話したように、僕は親父の姿を見てるから、この機械のできた時代に、あんな困難なことをやっても…という時代でおったのよ。ところが、やはり、お茶というものの基本は手もみであるというのだと、手もみをすることによって美味しく本当に味わいのあるお茶が作れるのよね。そうして、そこで手もみを何とかしてやろうということで、静岡から、先生を頼んで、青木勝雄(あおきかつお)、牧野富蔵(まきのとみぞう)、という方に来てもらったのやな。ほんで、その2人を頼んで、講習会をやったのやな。2回、3回ぐらいやったのかな、その段階でやっともめるようになった人だったり、もともと手もみをやっていた人を集めたりして、保存会を作ったのやな。そうして、上手にもむにはこういうことをしなければいかんということで、保存会で手もみの練習を始めたわけ。それから、4年か5年か経った頃かね、青木勝雄さんが主体で、なんとかして全国に保存会を作ろうということで、保存会を作ったのやね、それも大変な作業だったのやけど、とても楽しかったね。今では、だんだん保存会が増えていって15県ぐらいで保存会ができたのやね、ここ白川は初めて保存会を作ったからね、今は亡くなっているのやけど、僕の先輩がこの会の副会長になったのやな。

「教える」と「伝える」

 僕が会長だった時代はね、今ではお茶を作る農家は少なくなってきておるから、のちの世代に手もみを「伝える」ことも大事にしていたんや。先に結論を言うと、講師としてではなく、ただ手もみについて知っている人として、相手にわかりやすく「伝える」ということが大事なんや。2、3年はできてないけどね、白川町では、子供たちに手もみを教える機会として手もみ茶加工の体験が毎年あったんや。まず、子供に伝えるということは、大人に伝えるよりもずっと大変なのよね。ただ、子供たちに教えるということを何回も繰り返しているうちに、学ばせてもらったのは、子供は聞きたいという気持ちがないと聞いてくれないから、好奇心を少しくすぐってやるというのが大事なのやね。やっていく中で、こちらが教えようとするのよりも、伝えるということが大事なのだと分かったのよ。これは、他のすべてのことにも通じていて、相手の気持ちを考えて指導しないと、自分たちは専門の先生ではないもんで、指導できる立場にはないのよな。これも大事なことで、人は誰も他人を指導できる立場にはないから、何かを教えるというよりかは、同じ立場で、伝えてやるといいかもしれんな。また、人に伝えることもなかなか簡単なことではないもんやね。これは人生の教訓か分からないけど、まずまず人に伝えるためにも相手を知ることが重要なのよね。なんでかっていうと、相手を知ってないと相手を不快にさせてしまうかもしれないでしょ。その時点で伝えるということはすごく難しくなってしまうのよ。だから、人に伝えるときには相手を知って、不快にさせないようにするのがとても大事なのよね。

目的と過程と評価

 くどいこと言うようかもしれないけど、僕は中卒だし、ほかに何か資格を持っているわけでもないやんね。でも、いろいろやっておる中で、いろいろ表彰されたりしたのよ。でも、それは表彰されようとしてやったわけじゃないのよね。いろいろ一生懸命やっている中で、たまたま評価されて、ここまで来て、いろいろ賞をもらったのやね。その賞をもらったこと自体はうれしいけど、その賞をもらったこと自体には価値がなくて、それをもらうまでに支えてくれた人たちこそ本当の努力の結晶で、価値のあるものだと思うのよね。

大事なこと

 他にも、手もみ保存会がだんだん大きくなっていって、内容や活動も大きくなったもんやで、みんなが勉強してまず手もみをやるにはどうしたらいいかを考えたのやな。僕もそのころにはずいぶん一生懸命手もみをやったし、勉強もしたもんやで。他にも、一時期は皇居に茶を献上しようなんて話もあった。そういうことで、いろいろあったのやな。そのおかげで僕らもこんな山奥の中で全国の人と付き合いができたもんや。やっぱり大事なのはこういうことがよかったっていうよりも、どういう人と付き合いがあったかやね。人がいなければ僕の人生は始まりすらしなかったと思うよ。だから、人付き合いが大事やね。

【聞き書きを終えての感想】

 名人の話が分かりやすかったため、あまり手を入れない感じにしましたがどうでしょうか?名人がとてもおしゃべりだったため、聞いてるこちらも楽しくいい経験をすることができました。また、1回目の取材の帰りにはお茶を下さるなど、とてもいい方でした(お茶はとてもおいしかったです)。今回は、その町の伝統技術に注目するというよりは名人の人生に注目する形になりましたが、他の方とは一味違うものを楽しんでもらえるとうれしいです。

PROFILE

小池 彼男(こいけ のぶお)さん

中学校を卒業後、家業である農業に携わる。当時はまだ普及していなかったお茶に注目し、茶を農業として始める。他にも、手もみ文化の保存や普及などに努め、手もみ保存に関して努力したことが認められて、白川茶連合会理事に就任し、長い間に手もみ茶の保存に携わる。また、手もみ保存の運営に関して努力したことが認められて、平成10年に「岐阜県卓越した技能者」の認定を受ける。そして、地域特産物マイスターにも選ばれる。ご自身の手もみのレベルも凄いもので、岐阜県から、平成15年に特産名人の認定を受けた。

取材日:2022年8月11日、11月27日

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