千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き  鈴村 廣幸さん】

シイタケ夫婦~聞き書き甲子園で残す65年~

自己紹介

 名前は鈴村廣幸。昭和12年7月生まれだから、現在85歳です。生まれも育ちもずっと、この黒川地区にいるよ。今は妻と二人暮らし。3人の娘がいるけど、結婚してそれぞれ仕事も家庭も持っている。孫が7人、ひ孫が1人いるけど後継ぎがいないから、どうしようもないでシイタケの栽培は僕の代で終わりかな。

シイタケ栽培65年!

 僕は中学卒業してから、父と一緒に炭焼きをやりました。僕で3代目だね。炭焼きは28歳になるまでやった。だから、12年やったかな。その時に山にナラの木があって、それを切ってシイタケを始めたわけよ。最初は炭焼きと兼業でやっていたわけよ。だけども、だんだんと石油とガスが入って来て炭を使わなくなったから、シイタケ栽培を主にしたわけよ。黒川地区では昭和24年に黒川椎茸組合が設立された。僕は黒川椎茸組合に入って今年で65年間やっているんだ。僕の住んでいる黒川地区は気温の寒暖差があるから夜は冷える。冬も冷えるよ。寒いときは、マイナス12度だからね。だけど、夏場でも涼しいからキノコの質がいいわけ。だから、肉厚で質の良いシイタケができる。時間はかかるけど品物はいいわけよ。

絶品!黒川産シイタケ!!

 いいシイタケはやっぱり味だな。あとは、厚みがあってシイタケの傘の部分が巻き込んでいるもの。歯ごたえがなきゃいかんわけ。黒川地区は、寒いもんでシイタケの味がすごくいいわけ。食べる物やで、味が勝負なわけや。シイタケの食べ方は、人によって違うけども、生のシイタケだったら焼いて食べるのが一番おいしい。乾燥のシイタケは、うどんの出汁とか茶わん蒸しとか炊き込みご飯とかだね。炊き込みご飯の中に乾燥シイタケを入れるだけで味が全然違うわ。煮つけにしてもおいしいよ。

鈴村さんが育てたシイタケ

炭焼きからシイタケ栽培へ

 昭和24年頃から炭が売れなくなったから僕はシイタケ栽培を始めたわけよ。最初は、炭焼きをやりながら原木シイタケの栽培を少しずつ始めたんだ。ほかに仕事がないからやったけども、シイタケ栽培だけで食べていけたからずっとやっとるわ。生計が成り立たなかったら仕事も変えていかなきゃダメだったけども、生活が悪いと言いながらも、それだけで生活に困らなかったからね。周りからも「10年、20年も続けていける仕事は良い仕事だぞ」って言われたわ。
 最盛期には、乾燥シイタケの収穫量は1年に800キロくらいあって、乾燥機も4台あったよ。黒川地区の低温性菌のシイタケは露地栽培で4月上旬に一気に発生するからね。収穫時は忙しかったよ。

我が家の栽培方法

 今、種菌にもその種類が240種類ある。品種は土地に合うものを選ばないといけない。
 我が家は黒川地区の中でも標高が高く、530mくらいあるからシイタケ菌を使い分けないといけないし、原木シイタケは1年に1度しか収穫ができないのよ。そして乾燥シイタケの種菌と生シイタケの種菌ではまた違うんだわ。
 乾燥シイタケ用の低温性の菌は、露地栽培で1年に1度4月にしかシイタケが出なくて、夏場の生シイタケ用の高温性の菌は、6月頃から10月頃まで出るわけよ。生シイタケは山から榾木(ほだぎ)を持って来て1日水に沈める。水から出して水切りして2日くらいするとシイタケの芽が出る。芽を欠かさないように気をつけて小屋の中にたてておく。あとは自然に成長するのを待つ。山から持ってきて浸水し、収穫まではだいたい1週間から10日くらい。
 寒くなってくると、高温性のキノコは、低温障害を起こしてキノコがあまり出なくなるわけ。だから、我が家では、昭和56年頃にシイタケハウスを作ったのよ。天井を高くして、大型換気扇と循環型の扇風機を相対で廻し、湿度と換気に気をつけながら、夏場は幸いにも隣接する山林が西陽をさえぎり、谷川の霧にも冷気をもらい、冬場はシイタケの廃木を利用して、シイタケ小屋の地中に鉄パイプで温水を流し、床暖房をいれてね。6月から1月くらいまで生シイタケを栽培したよ。1度使った榾木はまた山に戻して翌年の同じ時期に同じように浸水してシイタケを収穫する。同じことを3年くらい繰り返すよ。
 乾きすぎても、湿度が多すぎても良いシイタケにならんのよ。自然の恩恵を受け、日々の寒暖差にも気をつけながら栽培したよ。

原木栽培の勝負の分かれ目!

 原木から榾木にする、その基礎ができないといかんわけよ。それが一番大事なところやね。シイタケは新木(しんぼく)の新しいうちは良いシイタケがたくさん出るのは当たり前。けど、古くなった時にも収穫量を上げないといけない。
 榾木を作るには、最初は秋の三分紅葉から七分紅葉の時に立木の元だけ切る。それから60日~100日たったくらいで90センチの長さに玉切りをする。次に植菌するけど、時期はヨシノザクラが咲く時、その時が一番いい。この時期に植菌をした榾木は、一番菌が周るわけ。それと、六乾四湿(ろっかんしっき)が基本だわ。六乾四湿っていうのは、六部乾かして、四部湿気ればいいってこと。菌を良く周すには大事なことだよ。生木に菌を入れるやつが1番いかんわ。菌周りが悪いし、木から芽が出るからな。新しい木の芽が生えてくるわ。乾かした原木なら、そんなことはまずないでのう。シイタケはとにかく榾木作りが勝負やで。そこで失敗したら終わりだな。

半分に切ってある原木

気候をつかむ

 シイタケの菌は、個々の土地に合う菌を選んで入れないといけない。菌のメーカーの言うことばっかり聞いてもダメ。菌のメーカーはいい産地の説明しかしないから、言う通りにはいかないよ。寒い所で成功したならいいけど、暖かい所のこと言ったってこっちではまねできない。気候が全然違うから。いい菌でも土地の気候に合わなかったらダメやで。だから、土地に合う菌を探さないといけない。それがなかなか難しいよ。順番に少しずつ入れてって、土地に合う菌を探したわけよ。また黒川地区は寒いから、冬はハウスに床暖房を入れとる。たぶん、黒川地区で僕だけやな。猿投(さなげ)地区の暖かい所なら必要ないけどよう。

シイタケ栽培65年の経緯と勘

 乾燥シイタケの場合は植菌した木をそのまま山に持ち込んで、鎧伏(よろいぶ)せでダーッと榾木を並べて伏せてやる。どの原木にも均等に雨や風があたるようにする。そして秋には全部地面に倒して、地面の水分を吸わせる。そしたら、3月くらいにまた立てるという繰り返し。倒す時期が難しくて、下手な時に倒すと、シイタケの原基がどっかに逃げて行っちゃうからな。だいたい、彼岸花の咲いている時期に倒すといいな。でも、種菌の種類によって違ってくるわけ。それを上手に見極める。そこらへんが慣れや技術だな。だいたいそれを年間3回繰り返してから4年目に榾場(ほだば)に移動させ、ようやく乾燥シイタケにするシイタケが生える。それからは収穫量が落ちるまで何年も伏せては倒しての繰り返し。同じ菌を使ってもやり方だけで全然違ってくるからね。経験だね。シイタケ栽培の技術には勘も1つある。

榾木の鎧伏せ

炭焼きで培った感覚

 シイタケの乾燥は、感覚だね。数字では出せないし、口でも言い表せないから、勘でやらないといけない。だから、口では教えられないね。晴れが続いた時のシイタケも、雨が続いた時のシイタケも、雨降りの翌日に収穫した時も、毎回状態が違うからね。シイタケの裏の色も、干した後は赤じゃダメだよ、黄色のきれいなきつね色をしてないとね。そのためにはしっかりと乾燥させて水抜きをしなきゃいけない。僕は全部自分でやっているけど、炭焼きの要領でやればできる。炭焼きの経験がものを言うわ。

大嘗祭へ奉納

 黒川地区のシイタケは有名になったから、平成と令和の天皇陛下の即位の際には大嘗祭で供納する庭積机代物(にわづみのつくえしろもの)の1つに選ばれて、黒川椎茸組合で献上し、記念の盃をもらったよ。

スーパーに押される値段

 昔はね、背負っていく量でも1年食べていけるくらい稼げてね。今の値段と違ったのよ。時代の流れと共に段々安くなってしまった。段々と生活がギリギリになって、最後にはスーパーの値段に押されて、思う値段がつけられなくなっちゃったよ。値段と労力が合わないからみんな段々やめてっちゃったわけよ。スーパーで100円で売られていると100円に合わせんといかんでね。スーパーの値段にはまったく苦労させられたよ。

努力の対価は「おいしい」の一言

 販路拡大はいろいろ自分でも挑戦したよ。東京市場は、先取りと言って、競りの前に良い品ものだけを先に卸売業者が買い取ることをやっていたけども、先取りをやると、その日の相場の1割高になるからね。良い品物を出荷するために努力したね。組合で共選出荷して東京市場へ出していたけど、個人出荷で岐阜市場へ出した時は組合の人たちに、「東京へ出さないかん!」と猛反対されたこともあったね。でも、個人で出すと値段が違うからこの時も先頭きって動いた。市場に個人で出すって言うと、コード番号で生産者がわかるから、いいものは先に引き抜かれる。ブランドっていう感じだったね。共選っていうやつは、ええこともあるかもしれないけど、悪いこともあるわけ。品物を出すとみんな一緒になっちゃうでしょ。だから、努力しなくなっちゃう。とにかく、農協に頼りっきりになってはだめだよ。愛知県の人は売ることが上手だからさ、共選とかはやらず、個人出荷でやっているよね。だから、今でも生産者が多いわ。
「※とれった」の産直市場に出すときも、始めは僕が1人でやったわけよ。店長に、「お前は相対で売ればもっと売れるから、相対で売れ」って言われたから。相対売りののぼり旗も法被も自分で作って、お客さんにその場で焼いて食べさせてね。相対売りはお客さんの様子が見えるから面白いよ。「とれった」では売り上げに協力したっていって、表彰状をもらったわ。当時は毎日持って行っていたよ。あの頃はちょっと若かったから行けたけど、今は歳取ったで、ちょっとえらいわ。
 「とれった」の産直市場に出荷するものは、ラベルに名前や住所や電話番号を記載しているから、購入者から直接電話注文もあるよ。「おいしかったので送ってほしい」と電話をもらうことも何度かあり、おいしかったと言ってもらえるのはやっぱりうれしいね。
 
 ※JAグループのファーマーズマーケット「とれったひろば」

好きだからこそ続いた仕事

 商売は上手にやれば面白い。借金することもなしに何とかやってこられたから。自分で辞めない限りはクビにはならないしね。とにかく質の良いものを生産コストを下げて作らないといかんわけ。いいものを作ればお客さんが絶対ついてくる。販売者から電話が来るようになるといいわ。こういう仕事が好きなら、魅力はあるね。でも、好きじゃないとできないから。どんな仕事でもそうだと思うけど、頼まれて嫌々やるようなことは絶対に続かない。努力したら、努力しただけの成果が出るから楽しかったよ。
 65年間でうれしかったことは、東京市場に出していた頃、毎日売上の電報が来たってことかな。今日はいくら売れたってね。それはほんとにわずかな年月だったけども、市場から個人的に電報が来てうれしかったな。今でも産直市場に出すと決まった時間に売上速報がメールで来る。毎日変動するから、たくさん売れるとうれしいね。

父からの教え

 原木はね、90センチくらいの長さの、大きなやつをさげんといかんからね、重いんだ。普通の人がさげると、端っこを持つから、重たいんだ。「ようあんな重たい木をさげるね」って言われるけど、コツがあるんだ。てこの原理を使ってさげるから、そんなに重たくないんだわ。それでも、簡単に持ち上がるものではない けどね。
 父親によく言われたよ。「とにかく、無駄のない仕事をしんと、やっていけん」「無理と無駄はするな」「勘の悪い奴は何をやってもだめや」と。

1人ではできなかったシイタケ栽培

 昔は、道路も無かったで、全部歩き。妻と一緒にシイタケを背負って、持って行ったわ。その分だけでも1年食べるだけ稼げた。特に昔は夏場の生シイタケなんて無くて貴重だったわけよ。道も車も無くて持っていけなかった時もあったよ。道が出来てからは、バスに乗せて東京に出荷したんだわ。今のように配送業者がない時代だったから、箱詰めしたシイタケをバス停まで背負って運び、バスの運転手さんが駅で荷物を降ろし、駅員さんが列車に乗せてくれて、みんなの協力で東京市場まで出荷していた時もあった。今は販売店舗まで自分の車で持って行けるけどね。今はシイタケの値段が下がってしまったから1年食べていくぐらいがやっとになったわ。
 大変ばかりだったよ。チェーンソーのない時代には、ノコギリで木を切ったり、運ぶにも山から背負って行かないといけなかったしね。最盛期には近隣に原木がだんだんなくなってきたから、長野県まで片道2時間くらいかけて切りに行ったわけよ。一番入れた時は、大型トラックに22杯入れたわ。それは原木で2万本くらいになったかな。
 最初は、榾木を浸す水を引いてこれなかったから、谷の水に浸しとったよ。昔は今ほど道が無かったから、入れる所まで行って、榾木を下して、積んで。ものすごく急な坂を、一輪車で一気に駆け上ったりもしたね。全部手作業で力仕事だったよ。夫婦で一緒に頑張った。すごく大変だったけどやりがいがあったわ。1人ではとてもできなかったな。

【聞き書きを終えての感想】

 僕は、情熱をもってシイタケ栽培を65年も続けてこられた鈴村さんに取材をして、普段の生活などでは得ることのできない人とのかかわり方や、仕事に対して情熱をもって生きることの大切さなど、多くのことを学ぶことができました。
 シイタケ栽培を極めた鈴村さんのシイタケは、今までで一番おいしかったです。この鈴村さんが作るシイタケに後継者がいないと聞いたとき、「自分に何かできることはありますか」と質問しました。その時の少し照れた嬉しそうな表情がとても印象に残っています。現在の農林業における後継者不足を実感しました。僕の祖父は林業に携わっています。後継者になるかは決まっていませんが、鈴村さんのように、祖父から林業について少しでも多くのことを学び、少しでも鈴村さんや祖父に近づけるように努力したいと思いました。「仕事は好きでないと続けていけていけない」という鈴村さんの言葉を忘れず、ひたむきに情熱をもって取り組めるようになりたいです。鈴村さんにお会いして、話を聞かしていただいたという経験を忘れず、それを誇りにして生きていきたいです。

PROFILE

鈴村 廣幸(すずむら ひろゆき)さん

中学を卒業して父と炭焼きの仕事を12年ほどする。その後、シイタケの原木栽培をはじめる。昭和24年、黒川椎茸組合が設立される。黒川椎茸組合に加入。その後、椎茸組合の組合長を3期(6~7年)努め、シイタケ産地の活性化やPR等に尽力する。また、平成と令和の大嘗祭には、庭積机代物として、黒川地区の干しシイタケを献上した。

取材日:2022年9月25日、11月21日

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