千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 柴田 芳樹さん】

季節を違える作物づくり ~米と椎茸の栽培でつむぐ1年~

サラリーマンからの転身

 私の名前は柴田芳樹です。30歳の時までサラリーマンをやっていて、そのあと親の家業を一緒にやるために実家に戻ってきました。昭和24年の11月に生まれて、今は72歳です。仕事は米作りと椎茸栽培を行っています。子供のころはごく普通で、昭和30年に小学校に入学して36年に中学に入学しました。その後、加茂農林高等学校に行って卒業しました。出身は岐阜県美濃加茂市三和町です。

家業を継ぐ

 高校の時は就職するつもりはなくて。家で両親が行っていた椎茸栽培や米作りの農家を継ぐつもりだったんですよ。だけどね、平成2年ごろだったかな。農業の機械化が進んで父親も田植え機を入れたんです。そうしたら便利になった分人手がいらなくなってしまって。だから自分は畜産をやろうと思ったんです。それで高校3年生の時に1か月間夏休みを利用して北海道に実習に行ったんです。そこであまりにもでかい、地平線が見えるようなところで農業をやってるのを見て、畜産はこういうところでやったほうがいいかなと思ったんです。
 家に帰って学校に行ってみると、クラスのほとんどの子が就職先が決まっていて、自分はその中でも取り残されていたんですよね。それで酪農は難しいから和牛の飼育でもしようかなと考えていたんですよ。そうしたら学校の先生が名古屋の企業が人を探しているから受けてみろってことになって、その結果、岐阜県の養鶏場で10年間働くことになったんですよ。途中で平成15年ごろからトラクターなどのオペレーターも務めていました。そうして30歳まで働いてたの。
 そのころ私の父親は車の免許を持っていなくて、そのうち農業をやるには車がないと材料などを買いに行くのが大変で難しい時代になってきたの。それでね、親が「帰ってきて一緒に仕事をやろうや」ぐらいの話で、実家に帰ることにしたんです。子供も小学校へ上がるちょうどいい機会だから、ということで、実家へ戻り椎茸栽培と米作りを手伝うことにしたんです。うちに帰ってきたとき、岐阜県の「補助事業で椎茸ハウスを作ってもいいですよ、お金は出します」という話があったので、そこからが始まりとなりました。うちは私が子供の時から米を育てたり、今はやっていませんが昔は牛を飼っていたりして仕事を手伝っていたんですよ。私は椎茸栽培に専念し、私の父親は米作りもやりながら手伝ってくれたという感じだったんです。

米を育てる1年

 米作りはまず3月の下旬に種もみといって苗を作る準備をするんです。種もみをまいたり田んぼを起こしたり。この作業を3月から4月にかけて行います。それで4月になったら代かきをします。代かきっていうのは田んぼを耕起(こうき)したときに水を入れて田植えをしやすくするように練る作業です。12月に稲刈りがすんだ後にする耕起が第1回目の耕起で3月が第2回目の耕起になるんですね。耕起っていうのは田んぼを起こして、中の土が空気に触れてないのを防ぐために、土を起こすことによって酸素を与える作業のことです。それで代かきを行うことによって土を水平にしやすくするんです。このとき使う道具はドライブハローといい、レーキの幅が2m50cmある代かき専用の道具です。
 5月の初めに田植えをします。それが終わったら畔草刈りを行います。畔草刈りは雑草を草刈り機で刈る作業で、9月までに4回に分けて行うんですね。そのあとに除草剤の散布を行っていきます。このとき除草剤っていうのはやりすぎてはだめなんです。なるべく少ない適度な量で使用してくことを意識しています。この作業を5月の下旬から6月の初めまでに2回やります。7月にまた畦畔(けいはん)の草刈りをします。畦畔とは6月に行う畔草刈りの作業と同じです。
 それが終わったら、8月の初めに稲刈りの準備をします。そして8月の下旬から9月の中旬にかけて稲刈りを行います。稲刈りが終わったら田んぼを起こし、耕起を行います。これで1年間は終わりですね。
 今後の課題としては、米作りの場合、米にしたときに袋に入れるんですよ。それがだいたい30kgぐらいあるので、一人では運ぶのが難しいです。だから運搬車などの改良をできるといいかな、と考えてます。

日本の主食を守る

 米作りで困るのは害獣です。特にイノシシが一番困るんですよ。それから鹿です。これらが田んぼに入らないように電気柵と言って電気を流す支柱を立てるんです。それで侵入路のところだけ出入りできるように工夫をしておくんですよ。電気を発生させる機械を夜のうちに流しておきます。そうするとイノシシがさわって中に入らないようになるんですよ。
 うちは大体1haの面積の田んぼから米を作っているんですよ。毎年少しずついろんな改良をしながらやっているんですけど、米作りは難しいですね。大体うちでは10aあたり7俵、1俵が60kgだから420kgぐらいです。それを450kg、480kg出そうと思うとなかなか難しい。10aで少しでも多くとろうと思うと1株当たり5gぐらい多くとれるといいけどね。
 それからもうひとつ。米作りはお金がかかります。肥料も使うし、それからトラクターなどの修理代や維持費もかかるんですよ。そういうのを計算して、米を売った値とバランスをとると、収入との差額が少ないんですね。普通のサラリーマンは月に1、2回給料が入るけれど、米は1年間で1回田植えして1回しか収穫できないんですよね。だから正直言えばもうからないです。それでも少しでも多く、少しでも安く皆さんに食べていただけるようにしています。米を供給して。うちは昔から田んぼがあり、土地を管理するために、荒らさないように守るんですよ。そして米作りの農地を守るということは、日本人は米を主食にして生活しているから、米を作って供給することにつながるんです。
 自然災害は、自分は米作りを40年やっているけど、今年のように雨の多い年とか日照りが続いた年とか自分ではどうしようもないことが自然にはあるわけね。洪水なんかが起こって水が出て、田んぼに砂が入ったりしても困るね。この地域では天候に左右されることはあまりないけれど、もしあったとしてもとにかく頑張るしかないです。米は病気にも気を付けなければいけないです。カビの一種、いもち病は広がってしまうと大変なので、農薬の制限など常に管理が必要となってきます。
 米の出荷方法もいろいろあります。うちは高山もち米とコシヒカリを育てていて、それらを直売所で売ったり、口コミで拡散したりして宣伝する工夫もしています。販売するときに日本人は米を食べる量が少なくなってきてパン食が多くなったと聞いてるけど、もう少しお米を食べてほしいと思い、売っています。

2年越しの椎茸栽培

 椎茸栽培のほうは11月に山から原木を伐って出すんですけれども、このときにチェーンソーを使って伐り倒します。それでね、1か月間伐った原木を置いとくんですよ。12月になったら90cmの長さに伐ってくわけ。それを山から出して、2月まで原木伐りというのを行うんですよ。2月になったら植菌作業というのを行います。椎茸の原木はそのまま置いておいても生えないんですよ。田んぼで言えば田植えをするようなもので、原木に電気ドリルで穴をあけて菌糸をつめていきます。この植菌作業を2月に終わらせます。
 3月からは伏せこみ場というところに菌糸をつめた原木を移動させてます。そこで保湿や保温を行うために仮伏せという作業が行われます。それができたら山の伏せこみ場にしばらく置いておきます。50cmぐらいの高さにずうっと、まんべんなく、平均に置いていき、そこで仮伏せを6月の中頃までやります。それが終わったら本伏せっていってこれを6月いっぱいまで放っておくかな。伏せこみ方法にもいろいろと種類があるけれど、私の家では井桁積(いげたづ)みにして約1年間伏せこみ場でゆっくり寝かせる。それを翌年の10月中旬すぎから今度は椎茸ハウスというところに移動して、ハウスの中で椎茸を発生させて、直売所に持っていきます。植菌作業をして発生操作をするのは前の年に植えたものをね。だから2年越しで発生させる。発生が終わった木を榾木(ほだぎ)というけれど、発生させて取り終わった榾木は榾場というところに持っていって、それで2か月ぐらい休ませて、それからハウスに持ってきて発生させると。昔は2、3回ぐらい使ってやっていました。
 長くやってると、意欲というか、もうちょっと頑張れば、椎茸のいいのがたくさん採れるとか、研究とか。榾木をクレーンで釣り上げて、水に入れて何時間おいたら、椎茸がよく出るとか、そんなようなことはちょくちょくやってきたよ。こんなようなことをやって「うまくいったな」と思えたときにはやっぱり生きがいを感じるかな。30年から40年ぐらい前は親が若くて親と一緒に4人でやっていたんですけど、今は私と女房だけですので、収穫する量は10分の1ぐらいになっていますね。椎茸栽培も、米作りと同じように、機械化をしていきたいな、と考えている。

井桁積みにされた椎茸の原木

無農薬へのこだわり

 椎茸の場合は1本あたりから50枚ぐらい、もっとたくさん出そうと思えば出せるんだけど、たくさん作れても、いい椎茸を作らなければいけないわけ。量が採れすぎても物が悪くなってしまうのでいいものを採れるようにバランスをとっているんです。原木はね、1本に菌糸をいれると3年ぐらいもつわけね。新しい原木は毎年伐って調達してきます。私の家ではアベマキとナラを中心に伐って原木にしています。椎茸は発生操作するときに原木を管理する場所もあります。ここでは榾木を水に浸して保湿を行う槽や原木を運ぶ滑車などがあります。それでいいものだけを採ろうと、ハウスの中に入れてしまうと質が落ちてしまいます。だから自然に発生させられるようにビニールハウスの中で育てているの。
 菌糸にもいろんな種類があってね、高温菌、低温菌、中温菌の大きく3つに分けられるの。家で取り扱っているのは低温菌で12月ごろ、冬に適した菌糸です。いい椎茸は、かさが太く分厚いんです。また乾いて丸みを帯びているのが特徴です。椎茸原木を管理するときはできるだけ低い温度で、保湿するためにあけた穴に発泡スチロールを入れていくんです。その原木を倒すときも工夫があります。チェーンソーで伐るときは伐り倒す向きがあります。その場合倒す方向の反対側から伐っていくことによって、狙い通りに伐ることができるんです。
 うちの椎茸の場合は農薬も肥料も使っていない完全な無農薬なんですよ。だから食の安全ということであったら、ほかの作物に比べたら一番いいものを作っていますね。椎茸栽培は菌糸がね、この40年間にどんどん改良されていって変わってきたの。だから自分でいろんな工夫をして発生させることは面白いです。昔はただ発生させて売るだけだったけど、そのうちいいものを、できるだけ自然のものを食べてほしいという思いが強くなりました。直売所で皆さんに喜んでいただけるよう、日々努力は欠かせません。

完全無農薬の椎茸原木

【聞き書きを終えての感想】

 「何があっても頑張る、みんなにおいしいものをたくさん食べてほしいから」
 季節を違え、米づくりと椎茸栽培のどちらも両立し、少しでも管理を怠ればその先に待ち受けるのは作物の病気や不作だ。気の抜けない作業の上に、さらに品質の向上を目指してより多くの人に自然本来の味を知ってもらいたい、という志を持つ。それこそが名人と呼ばれる技術につながっている。
 毎年研究を重ね、少しずつ改良をしていくその作業を「楽しい」と感じておられる。そして、日本の主食を供給することに誇りをもち、作業されている。これを私は「羨ましいな」と感じた。
 しかし、日本の農業には大きな課題もある。「もうからないこと」「働き手が減り、生産量が減っていること」「食の安全を守ること」。私たち自身が、これらの課題に向き合い、もっと日本の農業を守り、生かしていくことができるような社会を作っていきたい。

PROFILE

柴田 芳樹(しばた・よしき)さん

田んぼで米を作り、山で原木を伐り出し、椎茸栽培を行っている。子供のころは父親と山に入りのこぎりで木を伐り出し、コナラは椎茸の榾木に、それ以外は割木にして使用していた。1度働きに出て30歳(42年前)に三和に戻り、椎茸栽培を始めた。当時は年間1万2,000本ほどの椎茸栽培をしていたが、今は年間1,000本ほど。JAなどに出荷している。伐ったナラはまた萌芽し、太くなるとまた原木として伐る。今伐っている山も昔伐った山である。

取材日:2022年9月18日、11月19日

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