千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 横田 俊光さん】

「やってみる」の大切さ~原木しいたけを次の世代へ~

自己紹介

 岐阜県川辺町の横田俊光です。しいたけ栽培をしています。1943年9月生まれの79歳で今は家内と2人で暮らしています。長男の尚人、次男の千洋、三男の泰弘がしいたけ栽培を継いでくれました。家内とはアメリカへ農業研修に行く時の見送りで出会ってから2年間文通を続けて結婚したんです。

養鶏、実践の大切さを学ぶ

 今は原木しいたけをやってますが実は最初、原木しいたけではなく養鶏をやっていたんですよ。高校時代、狭い土地で何かやれることがないのかを探したのが養鶏でした。卵はあの時代、一番貴重な食べ物だったですから。親父と2人で小さなニワトリ小屋を作るところから始めた。私は農業高校へ通っていたから、そこの先生からいろいろなことを教わりながらやっていたの。それでも次から次へとわからんことが起こるので先生に質問しまくるでしょ。病気のことから餌のことからどんどんニワトリは成長していくもんで、学校でも養鶏の授業はやるけども飼育係の人がやってるだけ。生徒はそれを眺めてるだけぐらいでね、自分でやるともう全然違う。やっぱ実際に自分でやってみることが大事やね。朝、学校行く前に自分でニワトリに餌をやって、学校から帰ってきてから、卵を確認する。卵の量を確認してうちでは食べきれんことがわかるから、いかにしてこれを売るか。
 その頃はスーパーなんかないでね。自分で八百屋さんに行って僕の卵買ってくれっていって、いくらで売れるか。それから料理屋さんね。旅館屋さんなんかも卵を使ってたから、そういうところからも注文があったらいつでも配達してました。そしたら、校長先生から俺の給料より横田くんの収入の方が多いと言われるくらい稼いでましたね。高校卒業後も養鶏を続けました。卒業後の5年間で大体1400羽くらいまで飼育していました。

いざ、アメリカへ!

 その後、これからの若い農村青年にアメリカで勉強できるチャンスを与えようということを外務省がやってまして、それに私は合格したんです。途中2回くらい1ヶ月ずつの研修を受けてね。合宿しながら体力がないと判断されると落とされるもんで、なにくそという精神でがんばりました。それでよし合格ってなってね。その時は嬉しかったね。ほいでアメリカに派遣になったんです。その時私は23歳で一番年寄りの方でした。アメリカのオレゴン州というところに派遣されました。学校から宿舎への途中に飛行場があって、そこのパイロット指導員のシェイム君と仲良くなりました。ある日、オレゴンを飛行機に乗って空から見せてくれると言うもんで乗せてもらった。そしたら広場に大きな羽がついたやつがいっぱい飛び回ったりしてる。あれは何やって聞いたら七面鳥だと。これはいいなと思いましたね。
 それにしても、アメリカの養鶏にはもう大ショックでした。私が愛情をこめてニワトリをヒナから育てるようなやり方とは全然違って、もうとにかく大量生産。抗生物質を使いまくります。当時の日本には抗生物質なんて流通してなかったんじゃないでしょうか。ニワトリだって健康に育てば、抗生物質なんかは別に必要ないのに1人の人間で10万羽ってそういう大きな集団の農場を管理すると、とにかくコントロールを薬でやっちゃうんですよね。これにもう当時の私はショックを起こしちゃって。もうこれは農業っちゅうより工場だね。卵を作る工場だって。そのことに反感を持ったのも研修生の中で私だけやったと思う。他の人はアメリカの農業はすごいなっていうふうに見ちゃっていたんだと思う。だけど、私はニワトリをヒナから自分で学校で習いながら育てていて、卒業後もそれの延長でしょう。18歳から5年の実績を持ってましたけど、これを私の一生の仕事にするのにはと反感を持っちゃって。それで、たまたま友達だったシェイム君が乗せてくれた飛行機の空から見えた、農場の七面鳥という鳥を思い出してね。それから将来の希望をニワトリから七面鳥に変えました。そいでオレゴンの農場へ配属になってから七面鳥のことを勉強し始めました。私はニワトリを育ててたもんだから、七面鳥の体の調子を一目見るだけでわかりました。そんなやつは他にはいないもんだから、オーナーから「君をここのマネージャーにしたい、研修が済んだらぜひここで働いてくれ」って言われて。でも、家内と結婚をするために結局それは断ったの。アメリカの桁が違う広さの農場のマネージャーだから心は揺らいだけどね。家内の実家から結婚は許すが2人でアメリカで暮らすのは駄目だって言われましたからね。でもそこで決断するっていうのは私自身だからね。そういうチャンスもあって、自分にはそれは魅力的なのは違いないけども。しっかり決めなきゃならん。これが自分の人生のなかで一番の分かれ道だったのかもしれない。

七面鳥から原木しいたけへ

 日本で七面鳥をやっていくにあたって、私は愛知県の稲沢市というところにある食肉加工の会社に勤めました。そこで七面鳥で食べていくための計画をしてたんだけど、1年後に七面鳥のヒナを出荷する会社が倒産しちゃって、七面鳥は断念したの。仕事も七面鳥では生きていけへんで生活のあてもない。海外から安い肉が入ってきちゃうんで考えてみると、どのみち駄目やっていうことで、しいたけでもとにかく始めようかってなった。それで高校の先輩と一緒に木をタダで分けてくれるっていうところに行ったりしてなんとかしいたけの原木になる木を大体1万本用意したの。その木に今度は菌を入れなきゃならない。電気ドリルで穴を開けてやるんだけど1万本にもなると手が痛くて動かなくなっちゃった。そこでどうにか他の方法はないのかって考えた。そしたら夜中の2時ごろ、これを解決する装置が夢に出てきた。すぐにノートに書いてこれを作ってみた。
 そしたらこれがすごい楽で、手に負担がかからないようにするための装置を自分で発明したの。これ特許にならへんかって言われたりもして、結局この装置は2年後くらい後にはなるけど本当に特許になりました。これで効率もかなり上がったの。研修でアメリカの合理化に一旦は反発したんだけども、今度はそれが生きてくるわけね。そうやってどんどん他のものでも課題が出ると発明を繰り返して解決して、より効率的にしいたけを栽培できるようにしていきました。

横田さんの発明を基に作られた装置

こだわりの原木しいたけ

 しいたけ作りは原木に植菌するところがスタート。ここでさっき言った装置を使うの。これのおかげで機械化できるようになったから何万本って数にも対応することができる。植菌した原木は2ヶ月くらいビニールを被せて保温する。そしたらこれを仮伏せしてしいたけ菌を蔓延させる。時々、天地返しっていってひっくり返したりもする。それができたらしいたけをコンテナに乗っけて1回ぶつけて衝撃を与えるんです。たまたまぶつけちゃったんだけどこれがよかった。これをやるとやらないでは生育が全然違うの。この後、コンテナに乗せたまましいたけを浸水させる。ちょうど20℃に近いですね。何時間かしいたけを浸水させて出したら2、3日置いとく。芽が出てきたらハウスに移動させてやっとしいたけが収穫できるようになるの。これが原木しいたけです。今はもうスーパーとかに並んでるほとんどが菌床しいたけ。
 最近法律が変わったからそんなことはなくなったけど、ちょっと前までは国産のしいたけも実は国産じゃなかったの。というのはほとんど中国で菌を仕込んで。ほいで船で日本へコンテナごと持ってくれば国産になっちゃう。菌床しいたけはなにが入ってるのかわからん。原木風しいたけっちゅうものもある。原木の代わりにビニールにいろんな材料を入れて、そこへ菌も一緒にぶち込んでビニールを取るともう表面の色も変わるから原木風になっちゃう。すごいですよ農薬だらけで。向こうはそれが知恵だと思ってますけど。でも、そんなしいたけは作りたくないね。

横田さんこだわりの原木しいたけ

次世代へつなぐ

 山づくりを始めたんです。業者さんに委託してブルドーザーで林道を作ってね。しいたけの原木を植えて2ヘクタールくらいあるの。育った原木を切り出して林道で運んで、萌芽したやつは早いですから。また育ててね。森として維持できるように計画的にやってく。しいたけの原木を育てる場所として思い切って林道を作った。これさえやっといて後は人が手を入れ続ければ、代を変えて次の世代まで持ってける。こういう山をある程度開発してけば長い意味で何百年という単位で産業として生き残っていけるんじゃないかなって考えてる。山をこういう風に豊かにしようっちゅうね。最初は全然ダメだったの。3割くらい植えた苗も動物に食べられちゃったりもして。これはもうイノシシのせいだって思って周りを1メートル50センチくらいのプラスチックの柵で囲った。でもね、イノシシじゃなかったの。1年ぐらいしたら鹿の角とか骨とかが出てきて、お前のせいだったのかってね。イノシシだとばっかり思ってたから。鹿がおって、植えてたものを食べてたみたいで。お金はかかるけどもなんとか将来のためにできる。柵とかそういった投資は必要ですけどやりがいもある。この苦労のおかげで次の代まで残るという意味でもね。

横田さんが植林している山

利他の精神

 この山は松がいっぱいあるの。少し前まではマツタケなんかがいっぱい採れた。でも今はもう何にも採れなくなっちゃった。それはみんながね、好き勝手にどんどん採っちゃたからなの。でも、それじゃいけない。この歳になって利他というのを考えなきゃ駄目だなとつくづく思う。いかに利他の精神でしいたけを普及、発展させるかっていうね。突き詰めればしいたけも自然のおかげ。人間が生きていくっていうのも自然のおかげ。しいたけの場合には使い終わったほだ木。使い終わったほだ木を土に還すとすごい栄養のある土ができるの。それで里芋なんかを育てるとすごいよく育つ。里芋もすごく喜ぶ。ただ捨てたものでも時間が経って循環して里芋の栄養になる。しいたけのほだ木でしいたけだけやなしに、里芋も喜ぶんだっていうね。利他っていうのは人間だけじゃないの。そういうことを広げて考えると面白くてしょうがないなって思います。
 山も利他の精神。維持していくためには自費でも最低限のことはしていかなきゃいかんな。巡り巡って自分たちに返ってくる。将来何十年後にみんながそれで良くなるの。自他共助というね、私もできる範囲でお手伝いをさせてもらう。朝起きたら山歩きをするの。山のふもとまで行って、それから1時間かけてその道路の山歩きをする。1年中やってるとね、何回か松の木なんかが倒れて通れなくなっちゃう。それの処理も全部私がチェーンソーで今までやってきました。山に登れたという喜びを何かに変えなきゃいかんと思って。自分ができることは何かっていったらチェーンソーが使えること。そうやってできる限りで維持をしていくと後から山登りする人が綺麗やね綺麗やねって言ってくれて。それが支えになってここ6年間は毎日山歩きしてる。そのおかげで健康も維持できる。こうやって結局、利他の精神でやったことって自分に返ってくる。そういう精神は絶対に忘れちゃいかんって思うね。

おかげさま

 今はもう、経営は農家では珍しく息子たちに完全に移譲してます。社長の上には会長とかいうのもあるけど、私は一切任せてます。分社化してそれぞれ独立して、次男の千洋は、ここから車で1時間くらいのとこにある白川町に黒川農場なんかをやってたりする。三男の泰弘が今、私がやってたしいたけブラザーズの社長をしてくれてる。もともとはふじしいたけ園っていう名前だったけど息子たちの会社だから名前もしいたけブラザーズに変えたの。長男の尚人は山づくりをしてくれてます。その息子もやってくれてる。彼は森林アカデミーという学校を卒業してるもんだからプロや。山の木を育てたり、伐採したり、難しい太い木なんかをいかにしてどう切るかっていうのとかも学んでくれてる。そういう子が育ってくれてるっていうのはまた代が継がれてくってことだから嬉しいね。なんかこの頃、自然に口からおかげさまでって言葉が出るのね。おかげさまっちゅうのは、やっぱり神様が支えてくれてるというか。毎日朝、ぱっと起きて健康に過ごせる。そんな恵まれたこと他にはないわけね。山歩きだって毎日できる。毎日続けるっていうのはさ、天から見とってもらえるような気がするんや。悟りっていうのかな。全部自分の力だけじゃない何かが応援してくれてるっていうね。そういう嬉しさは大切にしていきたいね。

横田さんとお孫さん。原木しいたけは次世代に引き継がれる

【聞き書きを終えての感想】

 横田さんへの取材を通しての私の衝撃は文章で表すことはできない。横田さんの職業は原木しいたけの栽培だが横田さんこそ真の百姓なのではないかと感じた。利他の精神を持ち、次世代に繋ぐ。ただの原木しいたけ農家では到底できないことだ。現代のSDGsにも繋がるその考えは、今後の私の人生に大きな影響を与えるはずだ。自分は将来、どのような大人になるべきなのか。横田さんの人生、考え方に触れて深く考えさせられた。きっとこの聞き書き甲子園という機会がなければ触れることのできないものだったのではないか。横田さんから学んだことはとにかくやってみることだ。論より証拠。百考は一行に如かず。考えるよりまずやってみる。立ち止まっていても何も始まらない。評論家ではなく、まずやってみることができる横田さんのような、そんな大人になりたい。

PROFILE

横田 俊光(よこた・しゅんこう)さん

農業高校在籍時から養鶏を始め、農業研修生として23歳で渡米。アメリカの合理化された養鶏業に強い衝撃を受け、七面鳥に興味を抱くが断念。その後、アメリカで培った合理化の考えを活かし、故郷で原木しいたけの栽培を始める。現在は息子たちに経営を移譲。次世代のための山づくり等を行う。

取材日:2022年9月25日、11月13日

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