千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 早瀬 寛さん】

何でも屋の建具職人 〜「なんでもやる」の人生〜

自己紹介

 昭和9年の3月に生まれたんや。若い時から東白川村に住んどったよ。小学生の時の家族構成は、お母とお爺はおったな。お父は俺が5つの時に亡くなっとる。あと、5人兄妹で俺は三男。一番上、一番下に女、兄貴2人。今の家族構成は9人家族で、夫婦3組と曾孫が3人。職業は平成30年まで建具屋をやっとって、今は野仕事、山の草を刈ったり、神棚を作ったり、細かい仕事はやっとる。

松脂(まつやに)を取った小学生時代

 小学校3年生の時から4年間、大東亜戦争が続いて、6年生の時に終戦になっとるわけや。で、その間に飛行機の油にするやつで、松脂(松の木の油)を供出せなあかんかったわけ。松の木に溝をつけて、竹を切って、そして溜まるように竹を縛り付けて、そこへ松脂が流れ込む。それを4キロぐらい入る一斗缶(いっとかん)に入れて、供出するわけ。8月の15日に終戦になって、松脂の供出が終わりになってまったわけやな。そういう時代もあった。

自給自足の中学生時代

 中学3年の時だから昭和23年、14歳の時ぐらいやな。終戦後やで当時は仕事がなくて、兄貴が山で木を切って、炭焼きをしよったもんで、炭を焼いたり背負ったりしとった。昔、炭俵っていって、炭が15キロ入る丸い俵があったんや。そいつを巌ヶ洞(いわすがほら)(字名・隣町の佐見地区との境界あたり)から30キロ分、2俵ずつ背負って山を下りてきたんや。炭山行くっていったって、坂道歩いて2時間ぐらいかかるやら。そやもんで、一日に3往復ぐらい行けりゃ、大方済んでまうってことよ。炭は家の奥にあった炭倉庫に置いとくと、人が来て持って行くわけや。お金は後からや。火炊く時の木も山から運んどったわ。
 終戦後やもんでよ、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)の履物もなかったやら。ほんで、自給自足やな。草履を作って履いとったわけ。食べるものもなかったし、そりゃ惨めなもんやったで。俺らは中学出たけど、教科書なんてものなかったでね。藁半紙に、昔は謄写版(とうしゃばん)ていう刷るやつで作ったのが2、3枚あっただけで、本なんてあらへんでね。とにかく物資のない時代やった。

建具職人までの道のり

 昭和24年に中学を卒業し、大工の仕事で、村の安江建築ってところに入ったわけ。入ってすぐに中学校を建てて、完成してその次の年から、大工の仕事は全くなくなっちゃって。安江建築に2年おったけど、仕事もないし、伊藤木工ってとこがあったもんで、そこへ親方と一緒に入ったわけ。親方は機械大工っていって、製材機を取り付ける仕事をしに入られたわけや。俺は木工の大工で、既製品の建具を作ったわけ。昭和42年、32歳の時まで伊藤木工におって、その後、建具屋で独立したんや。大工さんが建てる家一軒の寸法を取ってきて、既製品じゃない建具を作っとった。そのうち、だんだん家ができたりして、建具屋は忙しゅうて、ほとんど残業で、昭和42年に独立してから平成30年までやってきた。
 新しい中学校になってるから、俺が作った中学校は、もうない。卒業した中学校と場所は一緒やな。戦時中は運動場にさつまいもを作っちょった。

築30年以上の自宅

 昭和61年に家を息子と建てたわ。息子は大工やっとったで。材料は所有する山から全部や。土田引(どたび)きっていって、牛の背中に鞍を付けて、2本のロープで丸太を抱えて、山のてっぺんから車の通れるところまで引いてくるわけやな。車が通れるところからは車で持ってく。小さい丸太はいくつも引いていって、大きい丸太は1本引いてくる。そうやって家を建てた。全部手作業やな。完成まで何年もかかっとらんよ。1年足らずや。家の建具は俺が全部作ったんや。

建具とは

 障子、ガラス戸、衝立(ついたて)、唐紙(からかみ)(襖のこと)、こういうのも建具っていうの。ガラスが入った障子は雪見障子っていうて、仕切りを上げて、雪を見るんや。あとは、襖の上にある彫刻は欄間(らんま)っていうけど、これも建具やな。模様は自分で彫った。今は建具はのうなってきたしよ、ほとんど雪見障子はないな。若い知り合いはおるけど、時代も変わってくると、本当に違ってきてしまうでな。

衝立(ついたて)

年中無休の建具作り

 建具は一年中作っとる。全部1人やもんで、障子1枚作るのに、組子が入ったり入らんかったりあるけど、半日、1日かかるな。雪見障子とかのガラスも自分で入れるんや。専門のガラス屋からガラスを仕入れて、自分で切って入れる。雪障子やったら、時間は障子の倍かかるな。

建具の材料

 木の違いはあるよ。東濃(とうのう)ヒノキっていって、東白川の名木やな。それを使っとるとこもあるけど、俺は使っとらんな。名木で値段が高いもんで、あんま使えないな。建築の柱は東濃ヒノキを使っとる。東濃ヒノキでも日のよう当たるところはええ。日の当たらんとこは東濃ヒノキでもええことない。俺は大垣から建具の材料を取っとったけど、製材は乾燥してないとあかん。乾燥しとらんと縮むもんで、乾燥第一やな。専門の木を売っとる問屋でないと、ちゃんと乾燥しとるのはないわ。

密着!建具工場

 これはほぞを作る機械(写真1)。ほぞっていうのがこの出とるところ(写真2)。ほぞを作らにゃ建具にならんよ。

(写真1)ほぞを作る機械

(写真2)ほぞ

 今度は穴掘りっていう機械でもう一つの製材に穴を掘り(写真3)、今度は組木(くみき)で、穴を掘ったやつと、ほぞを組み合わせて上から押さえると、四角がちゃんとできる(写真4)。

(写真3)穴掘り

(写真4)組木

 柄(デザイン)は、お客さんの希望に合わせて、一本の建具にするわけ。柄を合わせようと思うと建具のほぞが、1枚のところと2枚のところになってくる。だいたい2枚やわな。ガラス戸とかは全部2枚やし、2枚の方ががっしりするよ。2本引きは溝の厚みが5分(1センチ5ミリ)と7分(2センチ1ミリ)って決まっとる。そいつに合わせて作らないと、扉を開ける時に引っかかってまう。1枚のやつは、板戸とかで、ガラスより分が厚い。そやもんで、上下2枚のほぞやけど、真ん中の桟(さん)(障子などの横組み)は1枚でないとつかえてまう。あとは横に穴開けて、入れたり組んでいくわけやな。あの機械は超仕上げっていって、組み立てる前に手鉋引きの代わりに材をきれいにする(写真5)。仕上げ機やな。木に関することはなんでもやる。建具も家具、神棚も作っとる。特別作ってくれっていう人もおるで、木に関することは何でもな。なんでも屋や。

(写真5)超仕上げ

建具職人の一日

 建具の仕事は午前8時から始めて、午後8時ぐらいまでやっとったよ。家がとても建ちだして、期限までにやらないとダメなわけやな。それで残業続きやな。朝早く、切り込みにも行かなあかん。切り込みっていって、建った家にレールをつけて、溝に入るように、幅と高さの寸法を取ってきて、それに合わせて建具を作るわけやな。そいつを今度、建てにいくんや。それを名古屋の辺から、遠いところは横浜まで、朝、早う出なあかん。だいたい、名古屋の辺は午前5時に家を出る。当時は道が悪いし、到着まで3時間ぐらいかかったな。それで家1軒で、建具が40~50本はあるで、1日はかかってまう。横浜やったら、泊まり込みやな。仕事は建築会社からもらうわけ。この辺は、大工さんが建築会社をやってるから、そこから仕事をもらうわけや。今は少ないけど、当時は大工さんが多かったな。

50年続けた趣味

 PA活動っていって、音響の仕事。これは俺の趣味。村の夏祭りの盆踊りやとか、音楽流してたわけ。昭和26年から平成15年まで50年くらいやっとるよ。音楽も昔はレコードっていって、針でかける。当時は、レコードをかける機械がなかったから、部品を買ってきて、自分で箱を作って、部品を取り付けて音楽がかかるようにしてやった。レコードの溝に針を置いて、それで音が出るわけやで、針が減ってくるわけ。徹夜踊りのときには一晩中、針を変えてた。3~5回ぐらい踊ると、針を1本変えんなあかんかったかな。老人祭りやとか他所の町内にも頼まれてやったこともあるよ。今思うと、ようやってきたなって思うよ。

自作のスピーカー

建具職人の今 ―きのこ栽培―

 椎茸、なめこもやっとるよ。原木や。木に穴をあけて、そこに森林組合で買ってきた菌を入れて、発泡スチロールで蓋をするわけ。そやけど、誰かが菌をきれいに突っついとる。あれは鳥やな。そやもんで、どうも生えんくなってまった。できた椎茸はざるに1杯あっただけでよ。なめこは山行ってみると、自然に生えとるのもあるよ。木が倒れて腐ってくる、それで菌ができるやら、そこになめこができるんやな。今やっとるなめこの作り方は椎茸と一緒やけど、原木が違う。椎茸はクヌギ、コナラ、ミズナラ、シイノキ(どんぐりの木)を使っとる。なめこは、皮の薄いブナ、トチノキ、イタヤカエデ、ホウノキやわな。去年(令和4年)、ホオノキ(東白川村で自生している木。朴葉の木)でやってみた。椎茸を今年(令和5年)の春、シイノキに入れてみたわ。あれは皮が厚いで、できとるか分からん。来年(令和6年)、遅うに出るかもしれん。シイノキは、白川の大正川原(たいしょうがわら)の谷畔(たにぐろ)(谷の側という意味)にあったもんで、種拾ってきて蒔いた。ほいたら2、3本生えて今年の春切って、菌を入れたんや。そうやけどよ、シイノキは早う太くなるわ。皮が大方1センチ5ミリはある。シイノキは、きのこは生えんな。椎茸となめこの栽培場所は竹藪の日陰のところ。竹藪のところは乾きすぎてよ、昔はよう原木を水の中につけて、放いてやった覚えがあるけど、そんなこと今は水があらへんでできへん。きのこができるのに必要なのは湿度と温度だけや。そいで、叩いて振動を与えなあかん。きのこ栽培をやったことないなら何でも挑戦してみやええか(挑戦してみたらいい)。

椎茸栽培の様子

なめこ栽培の様子

建具職人の今 ―農業―

 現在は百姓(田んぼを作ったりお茶を作ったり、野菜を作ったりする人)の仕事。白川茶もやっとるで。だいぶ少のうなったけど、2反歩(たんぶ)ぐらいあるかな。米も2反歩あるよ。昔は田んぼやなんかも全部手やった。今は草刈り、水管理はやっとるよ。他は全部機械でやってまうで、今は俺はやっとらんけどね。息子がやっとる。あとは野菜作ったり。畑は家の裏の高いとこで、1反歩ぐらいあるかな。きゅうりから始めて、なす、かぼちゃ、ピーマン、トマト、ごんぼ(ごぼう)に、にんじん、大根、白菜、かぶら(かぶ)、キャベツ、さつまいも、ゆず、小豆もあるよ。作ってる野菜は自分とこ用だけやな。

畑の収穫物

田んぼ

農業、お茶、鶏は中学校卒業してからずっとやね。原木シイタケは、毎年菌を入れとる。まあ、やめようかで、ここまでやっとる。

茶畑の様子

建具職人のこれから

 もう足が痛うて、歩くにやっとこさやで。これ以上やりたいけどできんわ。でも、やっとるおかげに、身体がもっとるかもしれん。明日は山の掃除よ。田んぼの向こうが藪になって管理しないとあかんなって感じやな。何にもせんで遊んどってもあかんで。

【聞き書きを終えての感想】

 私の聞き書きは「建具って何?」から始まりました。建具という名前は聞いたことはあるものの、詳しいことは何も知らないうえに、初対面の人と話すことが苦手な私。取材に行っても、建具を知らないことを鼻で笑われないだろうか。そもそも、お話できるだろうか。最初はそんな不安が頭のなかで渦巻いてました。
 迎えた取材1回目。緊張していた私を、早瀬さんは笑顔で迎えてくださいました。そして、建具を知らない私に建具を一から丁寧に教えてくださいました。また私が理解に悩んでいる時は、もう1度最初から話してくださいました。そのような雰囲気のなかで次第に緊張は解け、取材を楽しんでいる自分がいました。1回目の取材では、お話を聞くだけでなく、工場の見学もさせていただき、なんと3時間も取材をしました。2回目の取材では、もう一度工場を見せていただき、畑や田んぼの写真を撮りました。そして、帰りには早瀬さん一家が見送ってくださいました。帰りにいただいた野菜と柚子、干し芋はどれもとてもおいしかったです。また、ペン立ては大切に使わせていただいてます。
 私が聞き書きで一番印象に残っているのは、「なんでもやる。何でも屋や。」という早瀬さんの言葉です。実際に取材するなかで、早瀬さんが建具の仕事だけでなく、農業やきのこ栽培、その他にも多くのことをやっていることを知りました。そんな早瀬さんの姿から、後悔がないように、今やるべきことから目を背けないこと、そして挑戦してみること。そんな言葉の重みが感じられました。
 聞き書きを通して、早瀬さん一家、役場の方などなど、たくさんの方と関わりを持つことができて、とても嬉しかったです。「やってよかった!!!」と思える経験でした。最後に、聞き書きでお世話になった全ての方々に向けて、本当にありがとうございました。

PROFILE

早瀬 寛(はやせ ゆたか)さん

岐阜県東白川村で生まれ育ち、現在も村にて生活している。昭和24年に中学校を卒業後、安江建築に就職し大工仕事に従事する。2年後には、伊藤木工に転職し建具の技術を学ぶ。昭和42年に独立、早瀬木工を起業し、建具製造業を営む。平成30年まで建具仕事を行っていた。自宅の近辺には田んぼや畑(茶畑)が広がり、かつては栽培をしていた。(現在は若い人に任せている)現在は、きのこ栽培や野仕事をして生活をしている。

取材日:2023年11月11日、2024年1月27日

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