千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【聞き書き 熊澤 健さん】

東白川で生きていく~歩んだ足跡と残したもの~

自己紹介

 私は熊澤健と言います。生まれは昭和9年4月で、もう今年の誕生日が来ると90歳になります。うちの娘もあんたと一緒で加茂高校に通っとったわ。奥さんと昭和39年に結婚して、子供が二人おります。兄弟は居らんで一人っ子です。子供の頃は石蹴り(けんけんぱ)とかどうやって勝敗をつけたかはもう忘れてまったけど、釘打ち(相手の釘が並ばないように、邪魔をしながら交互に地面に釘を刺していく遊び)とかして遊んどったわ。今は奥さんと二人でここに居るけど、時々孫が遊びに来てくれるわ。猫も居るし。おかげで健康にはまあまあ恵まれとる。色々病気とお付き合いもしとるけど。

今の田んぼとちょっと前の田んぼ

 今は集落営農って言って地域全体で田んぼを管理してます。それに入っとるもんで出来ることだけ自分でやっとるけど、電柵と水の管理だけやってもらっとる。草刈はうちの息子がやってくれとる。約2反ほどありますけどそれをやっとります。そんなような状態で。
 田んぼの水はよっぽどやらんけど山の谷から引き込んどるし、そこら辺りから出てくる出水を使っとります。水があんまり要らんもんで、雨の降る時は雨で間に合うね。水持ちもええし。
 今の田んぼは大型機械が入るもんで、大型機械を入れるには(田んぼを)早うから乾かして入れならんもんで、時によるけどやっぱり水はあんま要らんね。大型機械はね、自走でも来るし積載車に乗せても来るわ。昔はね、元々個人個人でちっちゃいのを持っとったんだわ。
 機械が無い時は牛を使っとったね。牛と機械。「もんい」っていう曲がった木で、それを牛のこぶに引っ掛けて田んぼをおこしとったんだわ。馬も居ってね、馬は手綱つけたわ。ほいで馬鍬(まんが)って言って大きい鍬みたいなのを引かせとったね。
何人も一緒にやるもんで真っ直ぐなるように綱を田んぼの端と端に張って、足跡が付かんように(植えた苗を踏まないように)ちょっとずつ後ろに下がってくんだわな。ほうやって1列ずつ(1束苗4・5本)手で植えてくんだわ。それからだんだん機械がでてきたんだわ。機械も歩いて押して二畳(191cm)くらいの幅しかないやつで、手で押して操作したわ。苗は専門の苗作らんなわな。今は育ったのが買えるけど、昔は苗床作って、4月の真ん中くらいから自分らで育てたわ。
 裸足の田んぼ作業の時は蚊に食われたり、ちくっーっと刺す虫が居ったりしたんやわ。そんなのに刺されながらやったわ。用水路とか川にはヒルも居ったね。それから「田植え足袋」って言うのが出てきて流行ったわ。もうちょっとすると長靴が出てきたわ。今のは虫に食われんし汚れんし良い靴やね。

東白川のお茶事情

 畑はねここらはお茶畑になっとって、常用にやるように作ってあるわ。今は収穫の為の機械があるけど、昔は手摘みやったわ。その後はさみが出てきたんやわ。それから今度は背負ってやるバリカンが出てきて。今度は二人用が出てきたわ。それでやっとったけど、やっぱり、品質は悪うなったね、ここら辺りでは。昔、手でやっとった頃が一番良かったね。二人用とかは便利やけど、選別ができんでよ。それと同時にお茶が衰退したって話やなあ。

道を造る石積み職人へ

 昔は百姓やったわ。家業のせんばきり(主にストーブ用の薪づくり)や炭焼きの手伝いもしとったし、それを継ぐんやと思っとったね。土木関係の仕事も国の予算がないからあんまりなかったしね。あの頃は燃料で炭を使うで炭を焼いて出したり、薪も使うもんでそれを作ったり、ここらの山は豊かで材木も出たわ。昭和53年頃ちょうどこの家作った時に柱が1本4万円位したわ。その後外の車庫も作ったけど、そん時は柱1本4千円くらいで、10分の1くらいになっとったわ。それはどうしてって言うと、外国の安い木材が入ってきたもんでよ。それで段々山が安くなったね。その代わり国や県が公共投資をやるもんで、道なんかも造れるようになったし、田んぼのお金も田舎の人でもいっぺんに払えるようになったわ。
 ちょうど昭和43年頃、各地で村を挙げて土木関係の仕事ができる人を育てとって、その時に東白川でもやっとったんだわ。その時はまだ百姓みたいなもんやったけど、もうお茶も衰退しとったもんでお茶を止めて、土木を優先して勉強し始めるようになったわ。そっから80歳くらいまでやっとたよ。
 今は歩道整備してあるけど、昔は道がなかったでね。石垣つんで土でくっつけて、あぜ道作らんならんわな。道路を造るには基準があって、それに基づいてやらなあかんわなあ。細かいとこまで設計して、マニュアルに沿ってどれだけのもんが造れるか、個人個人の技があったなあ、石積みは。ほんでそれぞれに役割があってね。管理者の資格を取ってこんならんし、工事現場の看板にあるように現場責任者は誰だとかもあったわ。今は写真撮って、それでどこが何メーターで、ここがこう変わってとか見れるけど、あん時は(熊澤さんが作業していた時)見れんもんで、自分らで写真見て計算したりしたんだわ。
 私は一応管理者の資格を持っとったもんで、監督みたいに看板やったり黒板に、ここは何メーターの何でここはこうしてって書いて、メジャーで測って写真撮って記録したりしとったわ。
 昔は手でやっとったもんで、大体一つの現場で5・6人やったわ。ほいでも今はコンクリも何でも機械で入れるもんで、3人ぐらいでやっちゃうわな。

歩道整備する前(提供:熊澤さん)

歩道整備した後(提供:熊澤さん)

昭和43年 8・18

 35~36歳の時に天心白菊の塔(白川町の史跡。現在、移転)のとこで雨がようけ降った時に、岡崎かなんかの観光バスが2台落ちて、100何人亡くなったんだわ(名古屋市内から乗鞍岳へ向かっていた、岡崎観光自動車所有の15台中2台のバスが土砂崩れに巻き込まれ飛騨川へ転落したという日本最大と言われるバス事故を指す)。それがちょうど私が消防団員の時でね、私んたより一級上の人んたと一緒に捜索に出たわ。ほいで自衛隊の人も出てきたわ。学校があってあそこに自衛隊の人んたが泊まってね。棒で突いて捜索したわ。その事故があったもんで、今はもうコンクリートで固めてまったし、道も補強されてまったわ。

まだまだ元気に動きます

 今はもうしてないけど、シルバー人材センターって言う全国的な組織があるんやけど、それがこの辺にもあって、そこで仕事頼まれてやっとったわ。草刈りが主な仕事やったなあ。今はもう足痛めてまったでやっとらんけど。
 東白川郷土歌舞伎保存会会長ってのも、ちょっとだけやってね。コロナで2~3年正式にやらなんだけど、県が力入れとって2020のオリンピックに合わせて4年くらい前から準備してやったんやわ。他にも平和祈念館(東白川村平和祈念館。西南の役から太平洋戦争までの戦争資料館)館長ってのもやったなあ。今から30年前くらいは帰還軍人のまだ元気な方がみえたもんで、話聞いたり、亡くなられた人の作品とか軍服とか靴とか飾ったりしたわ。夏の友(小学校の教材)の取材も1回受けたなあ。70歳から10年くらい館長をやらせてもらったわ。
 ここに(家の中)に暖炉あるけどこれに使う薪もチェーンソー持ってきて自分で切っとるよ。お茶も自分たのだけやけど作っとるね。

【聞き書きを終えての感想】

 美濃太田駅から電車に乗って白川口駅まで。そこから樋口さん(役場の方)の車で熊澤さんの家まで連れて行ってもらいました。初めて訪れる場所だったし、熊澤さんとお会いするのももちろん初めてなので、とても緊張していました。電話でしか話したことが無かったので、対面で話せるのだろうかという不安もありました。家の中に入ると大きな暖炉があってとても暖かかったです。「こんな遠いとこまでわざわざありがとね」と奥さんと出迎えてくださいました。熊澤さんお手製の自家用白川茶で和んだ所でいよいよ本題へ。普段だったらきっと聞けないようなお話ばかりでついつい聞き入ってしまいました。頭の中で整理しながら聞くということ、話をもっと深めるため質問をするということが結構難しく、ぎこちなくなってしまったこともありました。でも「ゆっくりでええよ」「これがさっき話したとこの写真でね」「絵で描くとこんなもんかな」と丁寧に優しくお話してくださったので、聞き逃すことが無かったです。「駅まで送ってこうか?」「お菓子持っていきなね」と本当に良くしてくださったので、お二人の孫になったみたいだと思ってしまうほどでした。テストや生徒会の活動と重なったり、パソコンが壊れたりして順風満帆とはならなかったけれど、最後まで何とかやり切ることが出来て本当に良かったです。経験が得られて知識が増えて世界が広がって、素敵な活動が出来たと思います。熊澤さんご夫婦を初め、支えてくださった方々には感謝しかありません。本当にありがとうございました。

PROFILE

熊澤 健(くまざわ つよし)さん

東白川で生まれ育ち、現在まで東白川村にて生活している。中学を卒業後、家の仕事を手伝い、石積みの仕事をした後、シルバー人材センターで働く。様々な役職を経験し今は実家にて農作業をしながら奥さんと二人で暮らしている。

取材日:2023年11月12日、2024年1月28日

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