森家に嫁いで 六〇年
実家の田畑と伊深の田畑
私は昭和十三年四月五日生まれ。加茂野町今泉ってところに生まれたの。富加を越えた隣近くやけど、バスが通(とお)っとった。けど、交通の便は割合不便は不便なところなの。
私の名前『和子』やけど、それは私の父親が付けた。私の父親はいっぺん兵隊に行って、戻ってきて、ほいで、私が生まれる前にまた兵隊に行って、そんで、留守の時に生まれたの。
その後、無事に帰ってきて、聞いた。「なんで『和子』やけ?」ってせってそしたら、「平和にしてもろてぇで、『和子』にした。」って。
この年代で『和子』っていう子多くて、同姓同名が多いやって、困ったこともあるけど、そりゃまあ、戦争に行って辛(つら)かったなぁ、って思う。けど、よう戻ってきてくれたね。
私は今泉の農家から来たもんで、学校から高校おりて、洋裁学校からおりて、二〇で嫁入りした。
私が居(お)る頃の実家は桑畑が多かった。サツマイモと麦も作ったけど、畑(はた)どころではなかった。それこそ寝るところも養蚕やっとったけ。まあでも、学校帰りに桑畑(くわばた)の葉を持って帰るついでに、桑の実食べて帰ってたね。それは楽しみやったね。あれはイチゴと一緒で熟してくると、美味しい。
まあ、そういうところで生まれたもんで、親たちは百姓ばっかよね。
田んぼは、実家のところは沼田が多かった。実家の方は膝まで入るところで、こっちの伊深は足首くらいやねぇ。しかも、麦田なもんで二毛作ができるよね。
ほいで、お米屋さんがお米買いに来た時、「あんたどこから来たんや。」って、せって言われて、「今泉から来た。」ってせって言ったら、「今泉の米は不味(まじ)ぃわ。ここの米は美味しいやろ。」って。言われた時、嫁ぎ先で米が美味しいと思ったことねぇで、って思ったんで「ほいかね。」って、言った。けど、歳くうにつれて、だんだん米屋さんが言った通り、前のところは米不味(まじ)ぃんやな、って思った。
今、実家は弟が後を継いで田んぼやっとるけど、昔の米より美味しい米を作るようなって、『ハツシモ』ってう品種を植えてるんよ。うちは『コシヒカリ』ばっか作るけど。昔、伊勢湾台風があったやね。あの時に遅(おせ)ぇ米ばっか作って、ペッタペタに寝(ね)てまって、まあ、大変。あれから『コシヒカリ』が出来て、早いようなもんを作るようになったんやね。
今も森家の田んぼに『コシヒカリ』植えてるんかね、それを、自分の息子が後継いでやってくれている。田んぼは四反ぐらいかな。まあ、田んぼは機械でやりよるで、やってくれてる。
あと、畑(はた)を二反ぐらいかな、持ってて、私は畑(はた)仕事を自由にやってる。
昔は牛がおって、田おこしに牛を使って、スキでおこして田植えの準備しとった。長男を出産してからの間、畑(はた)仕事はお義母さんがやってくれたけど、農繁期になると、乳母車に乗せて仕事を手伝って。大変やったね。
田んぼの草取りは、一番草取り、二番草取り、手で田んぼ中取るもんで、腰が痛かった。はざ掛けは家中でして、稲こきは、足踏み脱穀機で土日にみんなでやったね。籾摺(もみす)り機は村の組に一台あって、順番にやったね。
ご主人の話
主人がもう三年前に亡くなったんやけど、おるうちに耕運機もカンリキも使い方を教えてくれたもんで、そのおかげで、今、色々野菜(やせぇい)もん作っとる。
主人は関の市役所に勤めてたもんで、本当に家(うち)の事も外の事も何もかもみんな主人がやっとった。私は働くだけやった。そうなもんで、あまり家(うち)のことは詳しくは話せないけど。
私が三十三歳の時にお義母さんが亡くなって、そん時はまだ、土葬やった。毎日お墓に参ったね。雨降りやと山中の道が怖かって、一度、息子に「学校行く前にお墓一緒に行って。」って頼んだけど断られて。でも、自分の勤めと思って、四十九日までお参りしたね。
私が田畑をするようになって、主人は十七時で勤めが終わるとすぐに帰って、田畑の仕事を手伝ってくれたの。
けど、年数が経つと役所の仕事も忙しくなって、責任感の強い人やったもんで、給料袋を手渡ししてくれた時に「これは市民の税金から頂くもんで。」と言って、「自分は役所の仕事が大事やで、家の事は全部任せる。」と言われたの。
主人は元々食が細い人やったもんで、食事はえろう気を使った。五〇代で内蔵下垂で胃を全摘してもうて、それで余計。二か月ぐらい休ませてもらって、勤め始めたけど、二食弁当持って働いとった。
帰ってくるとお腹が空いたと言って、食べ過ぎて、えろうくなって、右下にして横になることがしばしばあったね。体力つくまで大変やったね。
せやけど、その手術した後に、ちょうど選挙があったもんで、なんかその部署やったんやろうね。投票日になると深夜の時すぎるまで投票の数をちゃんと集めて、数えて、ほいで明(あ)くる日の五時までに県知事まで持っていかんなかんよって。それがやね、ほんと、私、主人の身体の方が心配やったけ「自分が行かんでもええ!」怒るでよ。けど、主人は「いいや、オレがいかなあかん。」って行きよった。
はぁあ、本当にすごい人やったけ。そのあとも定年まで勤めてくれた。そんで、地元に戻ると「地元の事をやる。あてにするな。」って、市の選挙管理委員をやって、民生員会も九年間。人の為になることを良くやったね。
一人暮らしの人、デイサービス、入院、老人ホームに行って、見る人を一か月に一、二回見てまわって、福祉会館に行って聞き、伊深でサロンをつくり、月に一回、公民館で講師を頼んで年寄りを集めて楽しませとった。
いやぁ、あの人は本当に責任感強い人やったけ、おかげで今私が楽にさせてもろとる。
森家と正眼寺
私が嫁入りする前にあったことなんやけど、家(うち)の前、正眼寺の参道のところやけど、昔は県道まで通る道がなかったんや。昔は荷車が通る狭い道路なもんで。先々代の老師様がここの道を県道に通したいで、んで、「家(うち)の細い道の脇にあった離れを退(ど)かしてくれ、そんで、どこか移動してくれって。」せって、言ったんやって。さすがに家の人も、そんな他所の土地行くのも嫌やって。それで、色々勘考して、離れをコロコロ曳いて、ズルズル後ろにやったんやって。ほんで、広い道を引いて参道になった。んで、まあ下から見ると石段が綺麗に見えてようなったんや。主人が家出来るまでの苦労話をしてくれたの。
開山忌になるとこの道が上からずっと両方に店が出て、賑わっとったな。学校も昼前までやし、遠方からバスで、昔はバスが無くて、馬車で来てた人もいたね。バスが通るようになって、遠方からお参りにみえるようになったもんで、店も参道両方にあって、子供たちが色々食べる楽しみやったね。
開山忌の時は家(うち)に寄るんなさる方がおって、留守にできんもんで、なかなかお参(まぇ)りも出来なかった。おもてなしするために、赤飯したり、味ご飯したり、それをパックして、ほんで見えた方に持って差し上げたりしておったね。
大体、見えた方は久しぶりに来てくださるもんで、仏さん辺りをして下さるもんで。んで、開山忌が終わってから、正眼寺にお参りしたね。
森家のお勝手
森家に二〇歳(はたち)で入って、家族の食事、お勝手は全部私がしてたね。畑(はた)で採れたものを煮る、かまどでご飯、おかず作って、風呂も薪で沸かす。家の裏に天王用水が流れとって、洗い物は全部そこでしとった。
家中の洗濯物をたらいで洗濯板を使って洗って、ゆすぎは全て用水でやるので助かった。土日になると山から木を伐り出して、割木作ってみえとったね。
お義母さんはどちらかというと外仕事が好きな人やったもんで、縫(ぬ)り針(はり)もしなさらなんだ。なんで、ほとんどやね。
それで、お義父さんが定年退職してすぐに、お義母さん、早(はよ)う亡くなったもんで。お義父さんは厳しい方で、人が寄せてくると全部私にやらせよるんよね。
この森家でも、ちぃっと鶏(にわとり)『ブロイラー』という品種を飼(か)っとったね。それで、ちょっと弱ったやつをみんなで食べとったね。「卵を産まなくなると殺して肉にしておけ。」って言われて。実家でも、鶏飼(か)っとったけ、お父さんが絞めたお肉を見さしてもらったことあったけ、そやから、どこが『ささみ』かは知っていた。けれど、お父さんが鶏を殺したところをしっかり見たことなかったけ、けど、必死に思い出して、自分の手で絞めたのは森家に来てからやね。いやあ、ねじれば死ぬ、って言われてやったけど、頭キュッと絞めても、はやぁあ、飛んでってまうしねぇ。鶏初めて絞めるのにほんとに往生したけ。
そいで、その鶏を頭取って、逆さにして、足縛って吊るして、血を落としてね。『ブロイラー』という品種は肉がやらけぇもんで、羽付いたまま皮をペロッとして、手、足を取って、そのまま腸(はらわた)抜いて、天王用水路で洗ったね。普通の鶏はちょっと手間で毛をむしっても、まだついとるやらで、細かいやつは焼いて、皮をはいでいたけ。それは、私の父がようやりよって。まあ、それを見とったから、ちょっとはできたね。綺麗にして、お肉にして、正月、お祭りのごちそうやったね。
鶏は卵も産むし、卵も農協へ出したり売ったりしよったし、弱ってきたら、その鶏の肉を食べていた。肉なんて買(こ)うていかんよって、まあ自給自足やもんで。
鯉は本当驚いた。突然お義父さんが持ってきてね。「鯉もらってきたで、鯉汁しろ。」ってせって言ったもんで、私、お義父さんに「ひょぇ、これどうやって調理するとね。」ってせって言ったけど、返事が返ってこんもんで。
とにかく、近所におじさんがおったもんで、そのおじさんは池で鯉を飼っとったもんで。それで、「これどうやってやんの。」って聞いた。したらおじさんは、「鯉を横にして、頭を取って、すぐにへって鱗取って、やるよね。」って教えてもらって。けど、実際、鯉は頭取っても尻尾がピョピョピョピョって跳ねて跳ねて、動く動く。「ひゃあああ!」って、それを輪切りにして洗って、鯉汁にしたけど。これも往生したな。おかげで、鯉の泥掃(は)きの仕方、捌(さば)き方ができるようになって、法事や祝い事には鯉の料理出したな。お豆腐も作って。コンニャクは、お義母さんが亡くなったもんで、近所のおばさんに教えてもらって、作れるようになって。正月は、餅と大鍋で作った『大歳のごっつお』を温め直して食べとった。まあ、それから色々。ヘボもやったり、味ご飯やったりね。
どんなことも命令され、やらされたけど、めげずにやり遂げたもんで、今があると思っとる。
お義父さんの話
お義父さんは穀物検査員って、農林省勤めておったもんで、朝早(はよ)うから郡上や高山まで行っていた。
そんな人やから、昔にしたら珍しいね、伊深で二人ぐらいちゃうか、自動車に乗れる人やってん。ほいで、近所のお友達のおじいさんと三人ぐらいかな、一緒によう山へ出掛けた。
「また山に行くで、おむすび作ってけろ。」って、そいで、おむすび作ってやると、山で一日中(いちんちじゅう)遊んで帰ってくる。名目はヘボ探しなんやけど、まあ、夏の暑い時の避暑地やね。たまにちゃあんと小さいヘボの巣採って帰って、うちで巣を育ててた。まあ、秋はよう山眺めて、「おった、おった、あそこや!」「え、どこや?」なんて、蜂探ししとる。今はほんと、おらんくなったけど、伊深の男は蜂追いかけとった。ほんで、ヘボごご飯炊いてくれって言われて、教えてもらって炊いたら、美味しく炊けて、初めて呼ばれて、嬉しかった。
主人は採ることが嫌いやでようやらんかったけど、食べることは好きやったね。
ほいで、お義父さんなんやけど、米の検査の人やったけ、その時期は忙しくて、うちの方はほかしよって、あちこち行っていた。なんで、嫁いだ時は、主人の弟二人、中学生と小学生やったもんで、その時期は学校帰ってすぐ手伝ってくれたもんで、お義母さんと一緒に稲刈って、からげてやって、『はざ』はお義父さんが朝、五、六段の作って、ほいで、月明かりで弟二人登って、稲をほって、掛け寄って、あげよった。
お義父さん検査員で米には厳しい人やった。せやのに、自分のところの米の等級はいつも二等やった。私にしたら、不思議やったもんで。せや、一等とろう、と思って。
ほいで色々やって、やっと一等とれるようになった。ほんと、嬉しくて。飛び跳ねて喜んで、お義父さんに「今日米持うてったら、一等とれたで!」て報告したんやけど。そしたら、言わせるんや、「オレは質より量をとるんや!」って、せって言われて。
まあ、時間置いて考えたら、そうやなぁ、遅(おせ)ぇ米で量を多く採ったら金が取れんるんや。昔はなんでも物々交換やったけ、なるほどなぁっと思ったけ。にしても、やられたわ。
自動車の方も、昔よりも多くの人が運転するようになって、私も取得しようと思って、けどお義父さん「そんな女がとりゃなんでいい。」って叱られて。まあ、バスが通ってたもんで、まあそうかと。今は電動カートや電動自転車があるから、ちょっとしたところは一人で行けるね。
お義父さん七〇歳半ば頃に食ボケになって、一日、五、六回ご飯を食べとった。夜中に起こされて、「まだ夕飯食べてない」って、「夜何食べた?」と聞くと、食べた物言うで、「それ、夜のご飯やったよ」って言うと「そうか」とお茶飲むって言って寝て。自動車に乗るもんで、病院に連れて行くと先生に「自動車を乗らないように」って、それから私に車のカギをくれたの。
保健センターで一回目のボケ防止の講座を受けていたから役に立ったね。怒らんこと、どんなことでも聞くこと。昼ごはん終わると一時間ぐらい二人で話しとった。一年ぐらいで治ったで、ほっとした。ほんで、自動車は八〇歳まで乗って、自分から免許を出したわ。
趣味の今昔(いまむかし)
趣味は、今はもうやってないけど、一〇何年前まで御詠歌(ごえいか)やっとって。やり初めたのは四〇代頃やね。
森家は禅徳寺の檀家なもんで、ほいで、檀家の奥様方が御詠歌(ごえいか)やって見えて、仲間に入れてもらって一緒に御詠歌(ごえいか)を。昼から二時間ぐらい練習しとった。
ほいでな、御詠歌(ごえいか)にも大会があるもんで、大平賀の東香寺から先生がここへ来てくださって、教えて下さって。大会前はよくしっかり絞ってくださるもんで、畑(はた)仕事しながらで、なかなか勉強できえなもんだけど、一生懸命勉強した。一年に一回、中部地域の講習会、秋は全国大会があるんよ。恥じないように練習して。ほんで、全国回らせてもらうんよ。地方と妙心寺一年おきにやって。旅もあるし、勉強もあるけど、そういうのやっぱりいろんな人の話が出来るもんで楽しかった。
今思えば、もったいないことしたなぁって。御詠歌(ごえいか)の方はみんな年とりなんだ、一人二人減りして、一〇人足らずになったもんで、「これならあかんわ、辞めようか」ってなったもんで。
その後、他の檀家さんはあまりどうしているか分からんね。ただ、一人、年の人がね、「開山忌に朝一番に一緒に正眼寺さんまで、御詠歌(ごえいか)あげようかね。」って誘ってくださって。ほいで、あげとったんけど、五年してかなぁ。「もう、おこうか。」ってなって、辞めたね。
今は編み物の方してる。編み物は間違えても、後でポロポロしてまた編み直しできるんで、楽しい。今はコロナで行けんようになってしまったけど、三月と九月に名古屋で毛糸ばっかの組合が糸やら何やら展示してて、先生と一緒にそこで食事してから、糸を頼んで帰ってくるんや。糸は昔と違っていていろんな色があって、楽しい。今年はパンフレットを見て先生に頼んで注文して、そして、家でやってる。
地区の婦人会代表をやることになって、何も分からなくて、前年度の行事に倣(なら)って、役員の方に助けられて。一か月に一回は市役所に出掛けて前の代表の方と一緒に働いた。会の行事が色々あってついてまわるのが一年目やった。二年目は市婦人会の行事があって、皆さんについてやるのが大変やった。何事も初めの事ばかりだった。おかげでいろんな事、勉強になって、友達も大勢できたね。市役所に出入りしておるうちに栄養教室があることを知って、入って、一年勉強して。そしたら、食生活改善連絡協議会に入って、一か月に一回料理教室で勉強会。それを地区で教えたりしとった。
家の食事でまずは主人の食事が大変役に立って、また、孫二人子守しながら、食改で習った離乳食を作って、食べさせて育てたね。自分の子はどのように育てたのかを食改に入って色々学んで、十五年ぐらい教えたりしたね。
それと、美濃加茂の文化の森の伝承料理の会に入ってて、二〇年になるね。郷土料理「四季食べ物講座」をボランティア会員四五名、四班に分かれて、季節の料理行事を研修して、参加してくださった人と料理作りをして、一緒に食べて、楽しい一日を過ごしてね。
まゆの家祭りの時はいつも前日から仕込んでな。五平餅のタレはエゴマとクルミと落花生が入るの。クルミは渋を取るのがかなわん。あれがとるのが面倒やね。
でも、五平餅小さいやつ置いて、自分たちで焼くようにしたら子供達喜ぶやら。で、あの小さい、一口ぐらいの大きさの平べったい丸のお餅を一つずつ作って、置いてる。
他にも鬼まんじゅうやら作って。百姓のみんなと作ることが好きな人ばっかが入っとるもんで。
ほんで、集まれる日に行事として、ヘボ料理もするし、それが一番遠方からくる人が多いね。東は多治見、近いと言っても各務原の方から見えよって、わざわざ、ヘボ買い付けてやったね。今年は文化の森が二〇年なもんで、牡丹餅(ぼたもち)しようかと思ったけど、コロナで中止になって、ほんと、残念。
農協で、女性部の夜の講座があって、それを友達と一緒に、農作業も忙しかったけど参加して。着物教室で着物の着方、浴衣から留袖まで着れるようになって。帯の結び方も色々あって、自分でもできるようになったね。それで、娘の成人式の振袖、帯結びは着付けが出来て嬉しかった。布団づくりも教えてもらって、自分で作ったね。
今の随一の楽しみは畑(はた)仕事やね。ただ、ハクビシンやカラスやら生き物と競争。今年も網張っとったけど、どこかしらから入って、トウモロコシのええところ、やられたね。
けどまあ、いくつか農協さんに出荷しているもんで、それが『グリーンセンター』、『とれった広場』とかに並んで、それを買いに来た人が、「これええね」、「美味しかったよ」ってせって言われとるって、誰かさんが他の支店で聞いて、「そうかね」って嬉しい。生産者と消費者との触れ合いができるのはええね。
一番驚いたのは、わざわざ家(うち)まで夫婦でみえて、私の作ったゴマが欲しいで、買いに来た人もおるよ。そこから、毎年、ゴマ出るの楽しみにしとってくれて、グリーンセンターの人にわざわざ、「ゴマでんかね?」って聞いてるみたいで。まあグリーンセンターの人は、「こんな天気が悪いやで、まだ出やへんわ」って伝えてくれたりする。そういう話しを聞くと、やっぱり生産者は嬉しいね。他に、野菜を孫とかにやると、本当に喜んでくれて、やりがいがあるね。畑(はた)仕事はちょっとした天候や工夫で、収穫が良かったり悪かったりするから、大変やけど、楽しいね。
畑(はた)は自由に作ってやっとるもんで、草刈りも、昔は鎌でやっとったけど、今は草刈り機があって、ようなったね。
畑(はた)で採れるものを加工する。手間暇かけて作ることが好きで、味噌作り、豆腐作り、コンニャク作り、粟を粉にしてもち米に混ぜで餅にする。珍しい野菜とかも作ったりしたりするもんで、ほんと楽しく過ごしとるよ。