千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

四季折々の 山や野のめぐみを
味わいながら 生きてきた

井上正秋といいます。生年月日は、昭和二十三年の十月二十日です。ちょうど戦争が終わって、ちょっと経ったころですかね。だいぶん歳ですよ。

私は、山とか野のめぐみをね、味わうという一年があるわけね。そういうところで住んできたんです。

食べ物

これまでどう生きて来たっていうと、まずは、食べ物が大事でしょ、食べなきゃ生きてこれんから。こういう里山ちゅうか田舎に住んでると、いろんなめぐみがあってね。山や野のめぐみを味わうというか、四季折々の味があったね。里山っていうのは上手に利用すれば、いろんな食材に使えるんやね。ただ単純にご飯と漬物だけではなしに、四季折々の恵まれた山野の幸を使って、一年を過ごしてきたちゅうか。

たとえば、春やとタケノコとかね。混ぜご飯にすることが多かったね。子供の頃は、タケノコご飯とか、フキのご飯とかね。もちろん、タケノコのおかずもあったし、フキのおかずもあったけど、春はそういった食事が多かったね。タラの芽とかね、ああいうのを食材に使ったり、色々あるでね。ほれからワラビ、タケノコとかの山菜を、山菜おこわ(もち米ご飯)っていってね、おこわめしにするんや。

田植えのときにはね、ちょうど三時頃かな、「朴(ほお)葉(ば)餅(もち)」っていう朴葉に包んだあん入り餅やけど、田植えのおやつにしてたね。朴葉は裏山で採って来て、お袋とか女の衆が作っといて、田植えやからって。朝からやってると腹減っちゃうんでね、三時のおやつにみんなで食べた。一番の楽しみやったね。昼には、「朴(ほお)葉(ば)寿司」で、朴葉の葉っぱを使うっていう、そういう山のめぐみもあったね。

夏になるとね、ほとんど自給自足で、いろんな野菜がいっぱいあったわね。毎日メニューは変わって、特に、私が好きだったのは、キュウリの酢の物ね。今は、キュウリの酢の物の中にタコなんか入れるけど、昔はそんなの無かったから、キュウリだけが多かったね。ただ、ワカメが時々入ることがあったの。それは福井の方から、行商で女の人が、ワカメとかヒジキとか干物を担いで売りに来てくれたの。で、その時に買っておいたワカメを酢の物に入れてくれたと思うよ。

農協にはうどんを作る工場があって、うどんやソーメンも美味しかったね。ソーメンなんか、大きな樽の様な容器に冷たい水を入れてね、その中にソーメンを入れ、家族皆で掬(すく)て食べたね。トウモロコシや甘(あま)芯(しん)(サトウキビ)も親父が作ってくれて、友達と噛んだね。親は子供のおやつになるようなものも栽培しててくれたね。

そして、夏野菜なんでもあったから、ニンジンやレンコン、いろんな野菜を入れた「チラシ寿司」も、昔は無かったけど、今はマスやサケなんかを入れた「マス寿司」もあるね。

寿司っていうと、四月の祭りの時は、押し寿司ってあったね。寿司めしの上に乗るのは、桜の型には桜色のでんぷや、ジャコの佃煮をのせた型はなんだったかなーちょっと忘れたけど、そんな押し寿司もあったね。

それから、秋になりゃもちろん、「栗ゴアイ」と言って栗入り赤飯とか、松茸ごはん。松茸は今は高級になったけど、子どもの頃は、うちの山で松茸がすごく採れたんです。親に「松茸採りについてこい」と言われてついて行ったけど、子供でも探せるくらいいっぱい、あっちにもこっちにも生えてて、いっぱい採れた。持っていった小せい籠も入りきらんもんで、着ていたジャンパーを脱いで、袋の様にして、その中にもいっぱい入れて持って来たこともあったね。そんで、うちの土間いっぱいに並べ、親父がその中でつぼみのいいものとか、形のいいものとかは、農協に出荷した。そんで、傘の欠けたり、傷ついたような松茸を、うちで松茸ご飯にして食った。味ご飯では、大根飯もあるし、ぶつ切りのサンマを入れたサンマ飯なんかも、混ぜご飯はずいぶん子供の頃あったね。

自然のものでは、椎茸だってあるでしょ。昔は親父が、原木を池に沈めて、原木椎茸も作ってたね。今もうちで食うだけは、毎年裏山で原木を切って作っているし、コンニャク芋も植え、コンニャクも作ってる。自分とこで作ったコンニャクって美味しいもんやね。そんな食材も味ご飯の具になってるね。季節で食べられるものってほんと美味しいよ、その時期その時期しかないっていうのは。

今はガスやけど、昔は土やタイルでできたくどってあって、上に鍋をかけて、割木や木の葉で火を炊いて、ご馳走を作ったわけね。くどにも神様がいて、物をどこで紛失したのか、どこに置き忘れたのか、見つからない時に、くどの煙突に藁で縛って、「どうぞ見つかりますように」と祈願した。見つかったら縛った藁を解いてたこともあったね。

元旦のくどの最初に火を入れるのは、一家の主(あるじ)が入れる。「今年も硬く真面目で、まめで元気で頑張れますように」って、「硬く」は硬い樫の木の葉と、「まめで」の大豆の茎を干した豆(まめ)木(ぎ)で火を焚いたの。若水(わかみず)っていって、その年の恵方の方から水を汲んで来て、雑煮に使い、そんなことで一年が一家の主から始まる。そんな風習があって、私もずーとやったんです。今は台所も改築して、やってないけどね。

年が明けると元旦には、今でもやってるんですけど「まめでくりくり、かきとるように」ってね。黒豆の煮たので「まめ」で、「くり」は栗、「かき」は干し柿で、あとは、昆布。それから最後に仕上げにみかんを食べて、朝はお雑煮の前に、それをいただいて、やっぱ今年も一年、まめで元気に頑張れますようにっていう、おまじないみたいなもんでね。そんなことをやってきたね。

正月にはお雑煮しますけど、私のちっちゃい頃から、毎年そうやったんですけど、どういう訳か雑煮に「削りかつお」と「砂糖」をかけて食うの。その砂糖も、普通の「白砂糖」とかたまりを削った「黒砂糖」、そして黄色ぽい砂糖の「中ザラ」この三色(みいろ)が、それぞれ砂糖鉢に入ってて、自分の好きなだけ雑煮にかけて食うっていう、この地域だけかも知れんね。女房たちは削りかつおだけで食べてた。どうしても私は、いまだに砂糖かけて食べてるね。

○奥様
私は、お嫁に来て五十年、「えー どういうこと」って砂糖鉢を見て、びっくりしました。私の実家の方では、削りかつおをかけるだけで、このうちに来たらドーンと砂糖が出てまして。「お正月の雑煮にお砂糖をかける」と、ご近所でお話すると、ご近所も皆さんもそうみたい。

 

砂糖といえば、裏に土蔵があるんやけどけど、その中に大きな砂糖鉢あってね、白砂糖、黒砂糖、中ざらと三鉢あったんや。子供の頃、悪いことすると、その蔵の中に入れらとったの。で、それもだんだん慣れてきて、ある日、その砂糖鉢を頭にきたのか床に叩きつけて割っちゃったの。蔵の中じゅう砂糖と鉢の破片で大変なことになって、それからは蔵には入れられることは無かったね。

正月なる前の大年(おおとし)の日にはね、年越し蕎麦でなくて、年越し料理っていうのがあって、「それを全部食わないと年越せない」と言われて、夕食に、豆腐、ニンジン、ゴボウ、大根、里芋、昆布等を一緒にぐっと煮た料理でね。それにイワシの焼いたのと、それを一通り食べて、年越しをしてきた。そんな風習もあって、今でも毎年、続けて食べてるけどね、最近は、女房の打った手打ち蕎麦は、昼に食べてるね。

あんまりタンパク源が、今んところ無いでしょ、そんで、子供の頃にヤギを一頭飼ってた。ヤギを柿の木とかに繋いでおきゃ、周りの草食ってた。そんで、夕方になると小屋に入れて乳を搾ってね。牛乳じゃなくて、ヤギの乳を毎日飲んでたの。ほら牛乳飲んでるのと同じだわね。ヤギは、(伊深のあたりでは)飼ってるところと、飼ってないところがあったけど。ヤギの乳は、結構身体のためになったと思うよ。乳搾りを自分もやったけど、最初はなかなか上手くいかなんだけど、だんだん、上手に搾れるようになったね。そういうのも子供の頃にはやったね。

それから、タンパクっていうと、鶏。うちは鶏をね、たくさん飼ってたの。三百羽だったか五百羽だったかなー。農協の飼育番付やちゅうて、大関くらい飼ってたの。その当時は「ケージ」っちゅう飼育器に、一羽ずつ入れて、一番から番号が付いてた。卵を産むと、取りやすいように前に転がってきてた。小学校から帰ると、仕事があってね。記録帳に、卵を産んでる鶏の番号をチェックして、卵を集める仕事があった。その記録を見て、親父は産まなくなった鶏をつぶして、鶏肉も時々食べたね。今は、すき焼きっちゃあ牛肉が定番になってるけど、その頃は、牛肉じゃなくて鶏肉のすき焼きやったね。

子供の頃

小学校の頃は、結構、家の手伝いがあったんよ。やっぱり手伝わなあかんかった。小学生でも忙しかったんだよ。

今は、窓はサッシになってるけど、その頃は雨戸で、毎日雨戸を閉めとったねぇ。学校から帰ると鶏の産卵チェック、卵集め、そして雨戸閉めの仕事があった。

田植えの時期は、苗取りの仕事があったねぇ。苗田ちゅう苗を作る田んぼがあって、そこへ入(はぇ)って、苗を取る役。小学校の高学年の頃だったと思うけど、本当にえらかった。その晩は、足、腰に痛みがきて、まともに上を向いて寝れんかったね。

秋に手伝うのは、稲刈と、刈って束ねたものを稲架(はざ)下まで運ぶ仕事で。今は、コンバインで刈り取ってるでしょう。その頃は、もちろん手刈りで、稲架は、縦に十二段作ってたね。その稲架の下まで一輪車で運んで、そして、稲架の高い所は、そこに登っている親父を目がけて、下から放り投げてやる、親父はそれをパットつかんで稲架に掛ける。そんな仕事もあったね。脱穀は一か所でしてたんで、稲架にのぼって、脱穀してる所めがけて稲束を投げおろす仕事も、脱穀してる親父の手元に稲束を一つずつ取ってやる仕事もあったね。

冬の仕事は、田畑の仕事は無いから、山に行って割(わる)木(き)作りだね。親父が木を伐って、それを割木サイズに切って、割る。その割った木を、私が束ねる針金の輪っぱに、詰め込んで、仕上げはカンカンと打ち込んで、割木の束を作る仕事をさせられた、そんで、山から下りるときには、大八車にいっぱい載せた割木を運ぶ手伝いで、親父が大八車のかじをとり、私はそこんところにロープをつけてもらって引っぱる仕事、山道はデコボコになってるから、結構、力がいって大変やったね。

親父が割木を作っている間は、私の小遣い稼ぎで、紙の原料になるガンピの木を採りに、周りの山に行くんです。その木の皮を剥いて干しておくと、その頃は「ガンピないかねー」って買いに来る人がいて、買ってもらった。そのお金が、私の小遣いになってね。遊びの道具を買うお金になったの。

当時は、川で魚を捕まえる「追い込み網」とか、「魚獲りビン」があって、そういうのを買ったね。ビンにはうちの地(ぢ)味噌(みそ)を入れて、魚の通り道にそれを仕掛け、魚が入ったら出られんようなそういう仕組みになっとる。他にも「捨てバリ」て言って、ドジョウを捕まえてきて、切って、それを針に刺して餌にする。そんな「捨てバリ」を川の堤防の石積みの間の様な所に放り込んでおくと、ウナギがかかる、結構、獲れたょ。そんな針も買ったね。魚釣りもやって、前の川でもたくさん釣れた。ムツとか、シロハエ、シロハエが大きくなったオイカや,ムツが大きくなったアカムツと獲れて、おふくろが甘露煮にしてくれたね。

それから、鳥を獲る「カスミ網」も買ったね。今は、そんな網で獲ることは禁止になってるけどね。山に網を張って野鳥を獲って、鳥は焼き鳥にして食ったね。そんな遊び道具を買うのに、一生懸命小遣い稼ぎしましたね。それも山や川のめぐみやったね。

他に子供の頃の遊びちゅうと、チャンバラとかねぇ。カチン玉とかね、パンコと言う遊びがあったね。カチン玉ていうのは、小さいガラス玉で、順番に相手の玉目がけて、こんなふうに投げ、カチンと当ったらその玉がもらえるんや。カチン玉を買うのにもやっぱりお金がいるしね。パンコは、厚紙に絵が書いてある札の様なもんで、大小のバンコがあってね、相手のパンコのそばに叩きつけるように投げて、相手のパンコがひっくり返ったら、そのパンコがもらえるんや。子供なりにどうしたら勝てるか考えたね。パンコは上着のボタンをはずして、風を呼んでひっくり返せないか、カチン玉は、どの角度で投げたら当るのか、チャンパラは上段を切る格好をして足を切る。そんな勝つために色々考えたわけ。

山なんかを駆けずり回ったりなんかすることは好いとったし、山でカスミ網を張るにも、川で魚獲りのビンや、捨て針を仕掛けるにも、獲物がかかりやすい場所はどこがええのか、いろいろ遊びの中にも、子供なりに工夫するわね。遊びに一生懸命で、学校の勉強よりもそういう工夫をしとったね。

テレビがあんまり無かった頃からずっときたでしょ、やっと普及し始めて、一番最初は、近所に無いもんで、富加に「テンジン桑」と言って、八百屋か駄菓子屋の様な、お蚕の桑の葉っぱも扱う店があったの、そこにテレビがあって、小遣いあんまりなかったけど、5円で小ちゃいスルメが買えて。そんでそのスルメを買って、長く噛みながらテレビを見させてもらったの。今日は「月光仮面」があるから、今日は「赤胴鈴之助」があるからと、その番組の時間帯に行って見せてもらっていたの。そんな遊びもあったけどね。いろんな遊びはちょっと卒業して、中学生になったら、部活と勉強になったけどね。

子供の頃にはね、分団の子供会があって、小学生から中学生までで、その子供達だけで、毎年、道路腋の則(のり)に大豆を蒔いてね、秋に大豆を収穫し、公民館前の広場で脱穀して、そんで、それを豆腐屋さんに売りに行ってた。その売上金で子供会の行事の運営費にしてたの。親になるべく負担をかけないようにって。子供達みんなよう働きよったね。子供会の発表会では、歌を歌ったり、私もよくやったけど手づくりの紙芝居とか、寸劇もやって楽しんで貰ったね。夏の行事では、お化け屋敷で、上級生が仕切って、お墓へ行くとか、お宮へ行くとか、暗い場所だったので、小さい子は怖がりましたね。コンニャクをペタッと顔に付けたり、タオルを振ってお化けに見せたり、結構面白かったね。

秋には、山に山神様が祀ってあって、子供達だけで掃除をして、そこにお参りに行く、「山の子の勧進(かんじん)」と大きな声で叫びながら。そして当元の家に帰って食事を頂くんだけど、よくサンマの煮たのがおかずに出よった。その頃はサンマ一匹は出なんでね。頭の方か尾の方半分やったね。「席に着け」と言うと、みんな尾の方を目がけて席に着いた。尾の方が身が多くあると思ったんやね。

そんな子供会の行事も、年上、年下の役割があって、伝統的に毎年やってた。年上は、下の子の面倒も見たね。楽しいちゅうか、責任もあったよね。

子供の頃のおやつて言うと、サツマイモを蒸して、切って干した「切り干し芋」とか、大豆を鉄板の鍋焼器でばあちゃんが炒って、それを砂糖で丸めたものとか。餅ついた時に、小さく切って、鍋焼器で炒って砂糖で丸めたあられとか、お米の米選機下に落ちた、チョット選別した悪いお米を「ポンはざし」したものとか。年2回くらい「ポンはざし」の機械をもって商売に来る人がおったの。干し柿もあったね。今でもうちでは干し柿を作っているけどね。

こんな四季の山や野のめぐみも味わって成長してきたよね。あんまりいいもの食べてないから背は伸びなんだけどね。そんな子供の頃やったね

働く

うちは正眼寺(しょうげんじ)の総代やったね。ずーと昔からね。

昔はうちは庄屋をやってたんよね。庄屋っていうのは百姓のまとめ役のようなもので、伊深には「上切(かみぎり)庄屋」と「町庄屋」の二つ庄屋があったの。正眼寺は京都の妙心寺の次の格と言われているお寺で、正眼寺の諸年行事の受付係(うけつけがかり)は庄屋の家が代々務めてきたの。正眼寺はちょっと封建的なところもあって、こちらから断わらないかぎり、受付係を頼みにきてたね。町庄屋だった家もずーと代々そうやって務めてきたんやね。正眼寺に行くと、うちのじいさんも、親父も、受付係にずーといた。だから私も十八の年からずーと受付係をやってきたんや。今だに続いているけどね。そういう関係があった。

私は、中学一年の時に親父が癌で死んだの。ほして高校三年の時にお袋が脳溢血(のういっけつ)で死んだの。両親死んじゃったの。私は進学を希望してたんで、大学へ。ところうが両親死んじゃったし。年寄りが2人、棺桶へ片足突っ込んだじいさん、ばあさんいたからね。急遽、正眼寺の老師様に頼んで、就職先をお願いしたの。もうみんな就職希望者は就職決まってまっとるし、これはもう就職も諦めなあかんなという時期。老師様に頼んでもらって、就職が決まったの。

それは紡績会社だったの。郡上紡績って言って各務原にあってね、そこまで通ってたんよ。規模は、本社と三工場あり、従業員は合わせて七百名位の会社でね。会社は輸入した羊毛を使って紡績や織物もしてて、その当時は結構有名だったんや、(商品名)「郡上テックス」って。配属先は、人事や労務の仕事で、最初は給料計算の様な労務の仕事をしていました、五年位たったら、その仕事の他に「求人の仕事もやってくれ」と言う事になっちゃったの。当時は、求人難の時代やったから、なんとかして人集めなあかんいって。若い女子社員を全国各地から集めなあかんわけね。私は、北陸地方担当だったけど、手伝いで九州や東北地方も行ったね。学校訪問して、「うちの会社に生徒さんを推薦していただけませんか」と各高校の進路指導の先生にお願いしてまわったの。ただではこんな遠方に就職しないから、「全員働きながら、学ぶ」のキャッチフレーズで、会社で働きながら短大に通う生徒を募集していたの。その当時は、上の学校に進学したい希望があっても、家庭の事情で行けない女子高校生もいて、入社と同時に短大に行ってたわけね。朝早くから昼までと、昼から夜まで学ぶ二部制で三年間学び、仕事は、その逆で勤務してもらう、そして卒業したら、会社を退職して、幼稚園の先生になったり、保育園の先生になったり、そして中学の家庭科の先生になったりで、そういう資格がもらえると言う事で、求人募集をしていたの。

出張の時期は大体決まっていたね 年度採用のため学校訪問して、就職担当の進路指導の先生に、お願いして廻るのは、大体、田植えが終わった頃やったね。秋には、ほぼ採用を決定しなきゃいかんから、中には、現地採用っていって、そこに行って直接面接をして決めることもあってね。そんでうちの稲刈と重なって、忙しかったねぇ。

その中間の夏には、既に入社している社員の家庭に訪問して、今はどんな仕事をやってるとか、どういう友達と学び、遊んでいるとかを、お母さんや、お父さん、おじいさん、おばあさんにビデオで説明して、「元気でやってますよ」と家庭訪問で報告をする仕事もやってたね。そして高校も行って「御校の卒業生は、あそこの保育園に入って、頑張ってますよ」とか、「今度、○○さんが卒業しますが、近くの保育園に就職出来たらと思ってますが、何とか紹介して貰えませんか」とかで、報告したり、お願いしたりもしてましたね。そうゆうこともあって現地訪問は最初と最後の二回だけじゃいかんわね。その間に色々骨折りしてるから、「いいとこだよ」って学校の先生が推薦してくれる。先生がそう指導してもらえりゃ、一番ね。嬉しいんで、さらに頑張る。そんな経験もしたね。

会社に帰ったら、採用した女子社員を大事にしましたね。卒業するまでは、辞めていかんようにね、横道に逸れんように、「目標を決めて来たんやで、頑張れ!!」って、励ましてたね。そんな事もあって、私が採用した生徒から、未だに年賀状だけのやり取りやけど、「あの時世話になって卒業して、紹介して貰って二十年、地元の保育園の園長になりました」とか、「あけましておめでとう」だけやなしに、いろいろ近況報告も書いてくれて。そういう付き合いもしてるね。

ところが、私には都合悪いことがあって、募集等の出張に一回行くとなると、一週間から 十日、現地に行きっぱなしになるわけね。やっぱり出張が多いとね、うちが困っちゃうわけ。田舎の冠婚葬祭や近所付き合いもままにならんこともあったし。田植えとか稲刈もやらなあかんし、仕事とのローテーション、予定を合わせることが大変やった。そんなこともあって、退職届を出したの、その頃は私の採用した社員も多くなってたんで、会社で引き止められて。ちょっと未練もあったけど、結局、辞めさせてもらったの。

さあどこかへ勤めなあかんと思ってた時、募集のあったもんで、測量会社に入ったの。仕事は、営業課長のポストで、市役所なんかの行政に行って「測量の仕事ありませんか」て、営業に廻る仕事でした。一生懸命でした。チョット慣れてきたら、結構、大きな仕事も取れて、面白くなった頃に、「農協に入らんかね」の話があって、家族で相談して、地元の農協に世話になることにしたの。それから農協にずーと務めさせてもらいました。

今までの人生の中で、職場は農協だけやなしに、三つの職場を経験しました。十八の時に急遽、紡績会社に入り、八年世話になり、二十六歳で測量会社に入り、二十八で農協に世話になり、六十四歳で退任、今は、百姓してます。

家族

うちの女房は、二十歳の時にもらったの。食事をしてくれる人が,ばあちゃんもいたけど、じいちゃんばあちゃん高齢やし、親父、お袋いないから、二十歳できてくれた。料理なんかも、田舎料理の我が家の味も覚えてくれて、子供の頃から味わってきた味が、ずーと続いて、まあ良かったね。

兄弟は、二人だけ、弟がいたんだけど、ついちょっと前に病気で死にました。子供のときは、喧嘩もしたし、いろいろ遊んだね。両親が亡くなり、その頃に、弟が高校に入学、通学やら、授業料に毎月五千円いったの。祖父が出すと言ってたけど、私も紡績会社の就職が決まったんで「俺が毎月出したるわ」と言って、少ない給料から、弟に毎月出してたの、三年間は長かったね。自分の通勤の定期、昼の給食費、保険料等を払うと最初の頃は五千円位しか残らなんだね。 職場で事務服は支給されたんで、初めのうちは通勤列車もその事務服で通って、やっと背広を問屋町に行って買ってきたけど。背広を買うのに三ヶ月もかかった。そんで「自分たで食う分は、田んぼを作らなあかん」と思ったね。

百姓

お米作りは十八の時からずーとやって来たね。その当時は、田んぼを人に貸してあげて、自分ところで二反程作った。やけど、それでも変だったよ。今の様に、トラックターやコンバインは無かって、耕運機だけやったからね。田んぼ中を駆けずり回って、自分たちの食うだけのコメは作った。(田起こし、代すり、田植え、稲刈、はざ架け、天日干し、脱穀)

最初の年に、見よう見まねで、縦に十二段のはざを作ったの。大変なんやね、そのはざ作るの。で、作ったけど、台風が来て倒れちゃってね。どうしたらよいか、じいさんに聞いたら、なぜあかんかったかっていうと、はざに妻(つま)梁(ばり)を入れずに作っちゃったの。じいさんは、「山で股になるような木を四、五本伐ってきて、べったり倒れたはざ一段づつ、股の木をつかって隙間を作り、稲わらを引き抜くしかないな」と言われて。まったく手間がかかったけど、全部引き抜いて、もう一回はざを作り直したの。本当に嫌になっちゃったね。そんで、はざ作りに絶対必要なのは妻梁を入れることを教わったね。それからは妻梁を入れる様になって、倒れる事は無かったね。

そして二、三年経ったら、ハイベスターていう移動しながら脱穀する農機具ができて、十二段のはざは作らんでもようなった。三段はざになったね。三段ならだれでもちょっと手でかけられるし、機械化で、徐々に我が家の耕作面積も五反位に増やしたの。

今は、百姓専門で、貸してた田んぼも帰ってきて、田んぼは七反位作って、残りは休耕してます。お米の余った分は売ってるけどね。私が勤めていた時は、女房は畑に色んな野菜を作り、自給自足でしたね。おかげさまで、田んぼや畑があったから、ひもじい思いもせずに、生きてこられたと思うよ。

この里に生きて

この伊深にも好(い)いなっていうところはある。歴史的には正眼寺があるし、景色では伊深の里が見わたせる正眼寺の裏山に「座禅岩」があるの、また天王の方に行くと「岩石おとし」って私ら子供のとき言っとったけど、岩山で岩が突き出たような景色があるでしょ。それから川浦川沿いの堤防道路に桜並木もきれいやね。遊ぶところでは、ゴルフ場が三ヶ所もあるし、近くでは、市役所が整備してもらってる「健康の森」もあるし、「里山公園」もあるね。いいところやね。

美濃加茂市も、遊ぶところも、働くところも、そして美味しい食べ物もあって、結構いいところが沢山あるんよ。総合的に住むにはいいところやと思うね。

昔は、遊ぶのより、働くのばっかりやったけど、今の人は、やっぱ、働いて遊んで、そんで美味しいもんを食ってで、これが揃ってこないと、こういう所に、住みたいなあーて気持ちにならんでしょう。過っては、「遊びは金を使って、遊ばな遊びや無い」とそんな風潮もあったが、今は、段々と金を使って遊ぶんや無しに、健康的に遊ぶ、そういうところが必要なんやね。健康の森とか。行ってみりぁー、楽しいところもあるんやないの。自然に触れながら、健康的な遊びをして過ごす。遊びも見直されてきているね。

私は、里山の整備って大事な事やと思うね。山が荒れたり、田畑が荒れたりすると、山の麓に、葛のつるなんかがいっぱい這って、他所(よそ)から来た人には「ここに住んでみたい」と思わんでしょう。やっぱり、里山が綺麗に整備され、田畑に作物が作られ、緑豊かなところは「こんなところに住んでみたい」と思うでしょ。

一番の問題は、昔は里山の近いところでは、割木や、焚き物にして、自然にきれいになってたわけね、どこへ行ってもね。今はガスや電気になって、整備しなくなった。だんだん荒れてきた。里山が荒れると、獣が出るようになる。昔、猿や猪、鹿なんか出て来なかったよね。ちょっと山に行くと鹿の角が落ちてて、玄関に飾ってるから後で見てちょうだい。

農業問題もあるかも知れんね。せっかくいい栗畑あるのに、草でボサボサになってるところあるでしょ。いい栗ならせようと思ったら冬の時期に、枝の剪定しなくちゃいかんけど、面倒くさいからやらない、ちょっと手間かけりゃ栗いくらでも獲れるわけでしょ。山のめぐみとしてね。ところが野山が荒れると、イノシシ、猿、シカが出没し、栗や柿の畑は、ボコボコに荒らされ、収穫時期には、実を食われてしまう、田も同じ、だから里山整備は必要やね。年数のかかる仕事やけど、行政の中で大事な一役を負ってるんやないかと思いますね。行政もいろいろ里山整備や獣害対策に力を入れて貰ってるけど、ますは皆で思いを一つにして、それが、美濃加茂市の住みよい町づくりにつながり、自分達の住んでる里が、これからもずーと続くと思うね。

伊深ごはん

野の物、山の物を、普段自分たちが食ってるようなものです。

これは栗の「渋皮煮」と、さつま芋が入ってる「おにまん」です。今ね、栗がいっぱい獲れる時でね、食べてください。これも山や野の、めぐみやね。ちょっとブランデーが入ってるけど、こんな料理も、昔からあったね。ただ、昔はブランデーなんか無かったんで、砂糖で煮ただけのものやったね。でも、うちの孫には昔の味のやつを食べさせてるけどね。さつま芋もうちで獲れたものです。さつま芋は切り干し芋にも使うけど、孫たちが大好きで、毎年沢山作ってるんです。

○奥様
栗があるうちは毎年作るんです。そうたくさん栗のある家は無いんやけど、もう十分食べられるくらい、6キロくらい作りますね。毎年あげる方もいるんで、今の時期の栗は、甘いですね。それぞれ各家庭で味は違いますね。主人は、甘口が好きみたいですね。

 

 

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