遊びながら、お手伝いしながら
色んなことを子どもは覚えた
家(うち)の手伝い
色々思い出しよったけど、全部思い出すわけやないけど、子どもの頃っちゅうのは、だいたい小学校の四年生くらいになると、もう家(うち)の手伝いしなかんかった。そいで学校から帰ってくりゃあ、早(はよ)うカバン置いといて、「畑(はた)へ来い」「田んぼ来い」ってかっこうで、草引きから当然田植えなんかを、早(はよ)うもう手伝わされて。で、家(うち)の方やと、お風呂の水汲みなぁ。今の水道みたいあらへんで、川から水汲んで来(こ)ならんで。裏に川あるもんやでな。よその人んたは井戸水を汲んで風呂入れたり。俺んとこは川が近くにあるもんで、川からバケツで汲んできて、風呂桶入れて、ってな仕事をだいたい四年生ぐらいから手伝いやな。体のでかい子は、はい三年生くらいからやるわ。やけど俺は小さかったもんで、だいたい四年生ぐらいからやな。
風呂って言ったって「へそ風呂」ってやつで、木の桶に一人入るくらいの。で、金(かね)の焚口、お釜が下にあって、出とるわけや、ぼこんと。そこに焚き木を入れて燃やす。これも子供の仕事や。風呂はそんな今のようにどんどんと湯、使えぇへん。大勢入らならん。それ一杯沸かすと、そいつで追い炊きはするけど、そう水足して追い焚きなんてできへんもんで。そいつでみんな入るんやでな。大勢、七人も八人もおると、それ一つで大勢入るやり方やもんでな。そういうやつのまずお手伝いせんならんやろ。
それから五年生ぐらいになると、こんど、山から焚き木を採って来(こ)んなんで。で、木を出す仕事とか、山に作ってある焚き木を縛ったやつがあるもんやで、それを尾根出してやったり。それから焚き木でもこんくらい(直径三〇センチくらい)に伐った束(たば)がようけ作ってあったもんやで、そいつを子どもんたが、背負子(しょいこ)があるもんで、背板(せいた)ってやつやけど、背負子にだいた二束ぐらいずつ担いで運び出す仕事を手伝ったり。他所のやつをやると駄賃をくだれよったわ。そんなようなふうで、焚き木も全部自分とこで作るやら。中学校になると、今度は山の木を伐らっせるやつを、焚き木がいるもんで、枯れた松とか、木を大人が伐ったやつを引きずり出す仕事をだいたい中学生は手伝よったなあ。
学校
俺んたは終戦直後やもんやで、十六年に戦争始まったんか。俺んた十三年(生まれ)やで三つくらいん時に戦争始まって。で、小学校入学したら終戦や。尋常小学校やったけど、入学して八月に終戦なったもんやで、その間(かん)、ほとんど勉強無しや。朝行くと空襲警報で、デーッと戻って来るだけやろ。ほとんど勉強みたいな無しやった。その頃の俺んた、子どもなんて、家(うち)戻ってきて宿題をやるなんてことはそうあらへんのや。よっぽどやなけりゃ。学校の先生も宿題なんて出せへんなんだしな。まず学校は、こないだやった開山忌(かいざんき)は休み。昼から。お参りに行かなんもんで休み。お参りみたい子どもはしやへんけども、店がダーッと出よったもんやで、そこで外郎(ういろ)買ってもらって、食うぐらいなことやったけど。夏休みもほとんど、夏の友って本をもらって、そいつをやるだけな話で、特別部活があるわけでもなんでもないもんやでな。中学になると部活があったな。野球とテニスやったかな。卓球もあったんかな。女の子はバレー。男がバレーやるなんてことはあらへんで。男は野球かテニスか。剣道、柔道なんてものは無かったで。で、小学校でもボール遊びしても、せいぜいソフトボールくらいの程度やな。サッカーも試合らしいものはあらへん。蹴(け)っからかいて遊ぶだけの話しで。学校生活そんなもんやったし、家(うち)い帰ってくりゃぁお手伝いで結構忙しかったし。
草履(ぞうり)から靴へ
子どもの頃、履物は草履やしな。藁(わら)草履。正月になると下駄が買ってもらえるんや。草履は自分たで作るんやで。だいたい三年生か四年生になると学校でも教えようざったんや。家(うち)から藁を叩いたやつを持ってくんや。で、学校行くと先生が縄のない方、それから草履の作り方、足に引っ掛けちょって編んでくんやけど、そいつを先生が教えてくだれよった。図工の時間に。で、そいつを履いて。家(うち)のお爺さんたが作らっせるやつはカンカンに締まっちょるけど、俺んたがやったやつは締まっちょらんもんやで、早うのうなっちまう、履いちょると。そいつで学校へも行きよったし、家(うち)で遊ぶ時もその草履やし。足の裏はほとんど草履みたいんは、履いちょるんやら履いちょらんやら分からん。裸足で摺(ず)っとるようなもんやで。学校の運動会でも、今のような運動足袋あらへんのやで。で、途中で運動足袋つうのうが出てきたけど、(それまでは)裸足やで。裸足で走りょぅったんやで。で、運動会の前の日に学校の子どもんた全部で石拾いじゃわ。
で、中学行くようになったら靴が出てきたんかなあ。小学校のうちに出てきたんかも分からん。戦後にあぁいう靴が出てきたで。飛行機の輪のチューブな。あいつで作った靴が出るようになったで。ほで、裏はペランペランなやっちゃけど、痛(いた)無いわな、草履より。そういうやつが出てきて、まあ草履作らんようになったんやな。それでも下駄は履きよったで。盆と正月ぐらいに下駄買ってくだれよったでな。中学になったら、下駄でも歯を換える。自分たで板を作って。挟むやつ。そういうやつ履いて歩きょうったな。足駄(あしだ)って言ようったけどな。下駄でも普通の一枚の木から歯まで付ける下駄と、歯だけ換えれるやつがあったで。今のやつは歯まで一枚でやっちゃるのや。やけどあれ、勘考(かんこう)させたんやな。歯だけ換えるってやっちゃもんで。上手にな、横から挿すようになっちょったわ。やけど、俺んたはそんなことできへんもんやで、上から釘打って履いて歩きょうったけど。
着るものは小学校へ上がる頃は、おおかた洋服があったな。家(うち)で遊ぶときは着物やぞ。着物で遊んじょったで。着物も作ったやつやわ。学校行く時は、服着てって、ええやっちゃもんやで「汚すじゃないぞ」、「破らかすじゃないぞっ」てってぇな、言われて。家(うち)ぃ来ると着物きて、そういうやつに替えなんで。替えて遊びょうったで。
遊びは山と川
遊びはほとんど山やわな。山で戦争ごっこやとか、チャンバラやとかな。駆けずり回って、ようあんな草履で山、遊んじょりょったと思うが。今思うと、焚き木を取りに行くもんやで道がついとんのやな。人が歩くもんやで。そこをずっと上がって来(こ)よったんやなと思うんやけど。コケ(キノコ)の出る頃になると子どもは山へ行っちゃあかんのや。他所の山も境、知らへんもんやで、コケ採るとあかんでな。一〇月の中頃からコケが出るもんやで、そうなると子供は遊びに行っちゃあかんのや。
戦争ごっこってのは石のぶつけ合いとかな。そりゃもうとにかく戦争時分からずぅっと育っとる人やもんやで、喧嘩はいつもかもやで。この坂越すと、三和(みわ)の廿屋(つづや)っちゅうとこやわ。この部落でも、だいたい子どもが三〇人かそこらおりょうったでな。で、廿屋の人んたも何かあるちゅうと来(き)よったで、こっちに。ホウッと、ぼってって(追ってって)、石のぶつけ合いやで。ほで、俺んた、一文坂までぼってくと、今度向こうが一門坂からこっちへ石ぶってよこすんや。そういうような遊びばっかやったな。
水遊びの水泳ってやつは、三年生まではここら辺で遊んどらなかんかった。そういう決まりを上級生が決めておったんやな。ここら、こんな小さい川やもんで、川で遊ばす(遊ぼう)と思っても水が溜まるように石積みしなかんやら。石積んで、そこに今のようなビニールあらへんで、草を持ってきて並べたり土砂を乗せたりっというような仕事をやらんことには、まず水遊びができんのやで。自分たでやってからやないと。石の組み方も全部上級生が教えるもんやで。こうやって、ここはこうやってって。小さいうちから石の組み方も教えてもらった。
四年生になると池があるもんやでな、こっから二キロくらい先に溜池が。大きい。そこへ上級生が連れてくんやわ。そこへ行って、上級生が泳ぎ方を教えてくれる。それまではここらへんの川でチョボチョボと腹の付くようなとこで遊んじょったけども。その溜池は深いもんやで、一本か二本、枯れ木が浮かべちゃるんや。掴まって、チャバチャバ、チャバチャバとやるやつを上級生が教えてくれて、「こっから先は行くやないぞっ」とかっていうようなことになっちょって、そうやって掴まって初めて泳ぎを教えてもらう。まず始めは池へ連れてって上級生がドバドバッと、あばばこかせるんや、いっぺん。溺れさせることをあばばこかせるっていうんや、この辺(へん)では。そうやって水に慣らせて、泳ぎ方から始まって。夏休みはずっと、家(うち)で手伝いのない限り、昼間の二時か三時頃なると、まあ戻れって指示が出よったもんやで。時計があるわけやないけど、お日様がどこや知らんまで行くと帰れみたいなふうの。
作るのは、凧(たこ)は当たり前やろ。それから竹馬やら、木刀作ったりな。小学校の上級生になると鎌(かま)や鉈(なた)、鋸(のこぎり)なんてのは上手に使わなんで。そういうものを山で伐って来て。ええ(良い)刃物あらへんのやわ、あの頃やもんやで。金物ほとんど戦争で、供出で出(だ)いちまっとるもんやで。鎌を作っても、包丁作ったって材料が良(よ)うないもんやで。じっきに(すぐに)切れんようになっちまったりなんかしようる。で、そういうものを砥(と)がんならんで。砥石で砥ぐことも子どもの頃から教えてもらうわな。草刈りに行くにも鎌、砥いでから行かんならんし。だから結構そいういうことで遊びながら、お手伝いしながら色んなことを子どもは覚えたな。
麦飯と魚
食事は麦ご飯。麦ご飯て、麦が七割か八割で米のほうが二割から三割入ったような麦ご飯。或いは、サツマイモを増量して芋ご飯になりょぅった。そういうような食事が多かったなぁ。白米なったのはほんの、どうやろう、四〇年代入ってからかなあ。それでもまんだ麦が入りよった。給食も無いもんやで、いっとき味噌汁が出よったわ。あれは父兄が作ってくれるんかな。なんか味噌汁を飲ましてくれたやら。あとは、お茶は当たり前にあったけど、学校でも麦飯の弁当持ってかならん。そんな生活が多かったし。
食べるものほとんど家(うち)で作ったやつ。行商が来て、煮干し持って来たり、魚の干物では無いけどイワシ、サンマぐらいは持って来(き)ようざったもんやでな。そういうのはたまに食べたようったわな。しょちゅうやない。ここはだいたい、奥の方やもんやで、道路もこんなええことない砂利道やろ。だから行商人もしょっちゅう来(こ)ぅへんなんだんやわ。蜂屋の近所やったら道路もええし、家(うち)も揃っちょるもんやで、行商人も行ったとて買う人いっぱいおるけども、ほら飛び飛びやもんやで、なかなか行商人も来(こ)なんだ。
米と麦
夏は米、冬は麦。麦でも大麦と小麦とあってな。大麦は自分た食べるやつ。小麦はウドンに代えなんのや。製麺所があってな。ここで言うと関也(せきや)っちゅう部落にも一軒あったし、三和の川浦(かわうら)にもあって、そこへ小麦を一升、二升持ってくと、ウドン何杯か換えてくだれる。製麺所で交換してもらうのや。小麦と。それがあるもんやで、それ(小麦)をどんだけか作らんなんもんやでな。
麦踏(むぎふみ)てってな、子どもの仕事やったが、二月か三月に麦踏まなんのや。そこでも藁草履や。冷(つ)べったいに。藁草履でターッと踏んで歩かなんのや。大麦ってやつは、俺んたん頃は伸ばさなんもんやで。ペタンと。農協が圧平麦は作ってくれよぅったんやな。加工所があって作ってくれる。大麦はこっちで食べなんもんやで、いっぺん搗(とう)精(せい)をして、ペタッと伸ばいてもらって。そうすると押し麦になるんや。そいつを食べてかなんもんやで。麦ご飯やで。そいつがだいたい七割、米が三割。ウドンは時々やったな。そんなにたくさん採れるもんやないもんやでな。
それから米搗(こめつ)きは、この部落やったら、ここの公民館の横に動力でやるようなやつがあった。そいつでやりょうった。その前の俺んたの子どもん頃は、家(うち)ん中に、地べたに石臼が埋めてあって、そこに米入れて、トーントンと搗くやつが作っちゃる。石の杵がこっちで足で踏むとヒュッと上がって、離すとトンとなるやつ。水車小屋もあったけど、水車小屋は使えん時があるやら。谷川の水引いとったもんで、三、四軒かの仲間で使っとったんやわ。水が来ん時は水車回らんで。そういうやつでだいぶ搗かなんやった。これも子どもんたの仕事や。石の重いやつやと、こっちぃ上がらへんのや、踏んでも。ほんで棒があったもんやで、掴まってやるやつが。そいつに思いっきりやらんと上がらんなんて、小さい頃からそういうやつを踏みょぅったわな。大人の人やと片足で踏んでパタンパタンとやれるんやけど、子どもんた全体重かけても上がらん。小さい子どもんたが二人でやらなんやった。そんなことして米を搗いて。初めの頃は、ホント小さい頃はそんなふうやったな。それから今の動力の搗く精米機が来たもんやでやりょうったけど。
苗田てって、苗作ってな。種まいて、田植えは結(ゆ)い(い)方式で、手間替え(てまがえ)ってやっちゃ。奥様方を頼んで。近所の。「今日3人来(き)とくんさい」「明日5人来とくんさい」なんて頼んで。今日あそこ、こっちってって順番で田植えしたもんやな。子どもんたも手伝わなんもんやで、田植えは。向こうとこっちに上手な人がおって、紐張って植えてかなんのや。真ん中でケボケボと植えちょると、ピンと跳ねくってくるもんやで、紐がピシャっとなる。
草取りはガラガラってって、手で押すやつがあった。それが一番草用と二番草用と二つあったんや。一番草はガリガリ回るやつが二つ付いたやつ。そいつは土が一緒にコレンとひっくり返るやっちゃ。そいつは押すだけってやっちゃ。そいつが一番草用。二番草、三番草用は引っかけて、爪が付いとって、行ったり来たりさせる。一番草用、二番草用って決まっとったもんやでな。こいつは高学年にならなできなんだな。力がいるもんやで。
今はそりゃ、田んぼに水を入れるにも、どっかで一つちゃんとやれば水が来るようになっちょるけど、その頃は始めっから石組みを造って水路に水入れなんらんやろ。いっぺん雨が降ると、ダーッと行っちまうで、またやらなんやろ。全部人力やで。川に杭打って、止めちょいても水が出るとダーッと行っちまうんやわ。杭打っといて、そこへ藁とか草とか止めて、水路を造らなかんのや。そうやらんと水が行かんようなっちまうで。四六時中水が入るようにすると、冬でも水が入ってちまうで、冬はそれ外しておかんなんやろ。今はちょっと行って板をペタッとやるとか、こういうやつでできるけど。
牛も馬も家族
どの家(うち)にも牛か馬がおりょぅったんや。農耕の。馬はこの部落では一件飼っておざったかなぁ。あとは牛。家(うち)の中で飼っとったでな、牛も馬も。家族と一緒やで。家(うち)ん中やで。俺んとこで言(ゆ)うなら、今そこが玄関入ってそれやら。ここんとこが馬屋(まや)やったでな。で牛も人間も同(おんな)じ所から出入りするんやで。そういう造りやったで、もうほとんどの家(うち)が。田んぼへ引っ張ってって。牛の世話も、水汲んで来てやらならんしな。今は樋(とい)みたいなやつで、ダーッと流すだけやけど、当時はバケツで汲んで来てやらんならんやら。そいつの餌も刈って来なんしな。ひごって竹(たけ)籠(かご)ががあって、そいつにいっぱい刈って来(こ)なんやったんや。鎌で刈って、そこ入れて、背負(しょ)ってぇな持って来よったんやけど。毎日やらなかんもんやで順番順番のうなるわな。田んぼや畑の畔草やわ。それも子どもの仕事やったな。
三十二、三年なると、テーラーってゆうやつが出て、そいつで田畑を起こせるようになったもんやで、牛や手で起こすことは少なくなってきた。それまでは跳ねて起こすやつ、グッと刺(さ)いて、プッと跳ねる、今でも一台あるはずやが、そういう機械で起こすか、或いは備中で起こすか。そういう作業やったやつが、テーラーってやつが出てきて、そいつの後ろにリヤカーをくっ付けてダーッと行って、外して、そいつで田んぼを起こしたり、畑(はた)を起こしたりってなことをするようになって、だいぶ楽になってきて。トラクター、俺んとこの部落入ってきたのは何年くらいやったろうなあ、四十五、六年かなあ。もっと遅かったかもしれん。耕運機ってやつがあって後ろついて行くやつや、ダッダッダと耕しながら。その耕運機ってのは、ほとんど酪農組合とか、そういうとろこが買って、頼んで起こしてもらうと、いうようなやり方をしよったんやけど。
祭り
春祭りの頃に、田んぼへツボを捕りに行かならんのや。タニシってやっちゃ。田んぼにおるやつ。そいつを、春の祭りの時のご馳走にしなんもんやで。そのツボってやつを捕ってきて、中身を出して、そいつとネギと混ぜて味噌和えにするんや。そいつがほとんどお祭りの頃の料理やもんやで。山ん中にある田んぼへ捕りに行かならんのや。冷(つべ)ったいにな。これも子どもの仕事やったな。春祭り四月やもんで、三月の中頃から行かならんのや。こんだけばか捕ってくるやないで。家(うち)へ持って来たら、結局カマスにいっぱいあるとかな。そんなふうやで。で、暫く水につけて。泥吐かせなかんやら。昔は“カマス”っていって、ムシロを半分に折って、両脇を縫うと一つの袋になるやら。で、ムシロやもんやで水は通るもんやで、そん中へ入れて、川にほとべちょくのや。ほうすると泥を吐くんや。そんなやつが子どもの仕事やったな。お祭りはここら辺は四月だけやけど。お宮さんに行く春祭り。ここではこの山の奥に、峠に御嶽山(おんたけさん)が祀ってあるんやわ。そこへ年に一遍、祭りをやらなんで登らならんやら。あとは、そこらへんにチョコチョコと氏神様みたいなやつがあるもんやで、この人んたで守(もり)しよ、こっちのやつはこっちの方で守しよってことで。
山と生きる
山に虎(いた)杖(どり)生えるやろ。腹減っちまうで、学校の帰りに食って来ならんで、新聞のような端っこに塩を盛ってな、ポケット入れて。で、学校の帰りに虎杖付けてな食ったり、道端に生えとるスイバっていう、あいつも塩つけて食って。ほら学校帰りはまあ、みんな腹減っとるもんやで、我先に採って食べんならん。そういう食べ物を、とにかく何でもかんでも山にあるもん、畑(はた)にあるもんも、よその持ち主が決まったやつは採っちゃかんけど、山にあるやつは、ほとんど木に登って採らなん。今のようなガムはないけど、ホヤモウチって言ったが、モウチの木。そういうのが松の木に、宿り木のように生えるのやわ。そいつを上(うえ)あがってって、採って来(こ)なんのやわ。それを、こういう粒があるもんやで、ブツブツの。そいつをみんな口ん中入れて噛んじょると、多少甘いし、ガムのようになるんやわ。そんなやつを採りに行かならんしな。木登りはしよったな、みんな。
山はほとんど焚き木やで。冬のうちに伐っといて、それを一年中焚くだけ。葉(は)が生えたやつはもうあかんもんやで、葉っぱが出ん冬のうちに全部切り倒して、枝は枝で縛り、大きい太い方は太い方で割り木にしなかんやら。割り木もほとんど子どもの仕事やったぞ。斧でパーンパンと割らなんで。割り木は今、パシャっと割る機械があって、健康の森でも作ってござるもんで見たことあるやろうけど、あいつを人力でやりょうったんやでな。輪っか(タガ)は今売っちょるやつとちっとも変わらへん。大きさも昔と変わらんなぁ、ありゃぁ。薪はほとんど、カシ、楢(なら)、何でもや。手あたり次第薪にした。
そうこうするうちに、今度は椎茸をやるようになって。正眼寺(しょうげんじ)の老師が椎茸をやるよう教えさせたもんやで、みんなチョッチョっとやるようになって、椎茸の原木がいるようになった。そういうやつをやって、椎茸の菌を三和で作るようにならしたもんやで、だいぶこっちでも山の木を伐ってやるようになった。ただ終戦なったら、今度は焚き木とか、どこやかで被災しとるもんやでな、家(うち)作らならんやろ。で、材木が必要やったんや。ほんでこの辺の山、ほとんど裸山になっちまったわ。みんな伐っちまうもんやで。伐って、建築材料、それから炭の材料、それから今の焚き木。そんなようにして、どこの山も裸山になってまって。で、松茸が生えるようになったのもだいぶ後で、残してあった山、松茸が生えるとか言って、木を伐らんようにしてあったとこのだけは生えたけど、ほとんど下のほうは木、伐っちっまたもんやで、裸山多かった。蜂屋の近所行くちゅうと、開墾しちまって、そこで芋作ったりなんかしよったわな。ここらへんでは開墾までしとるとこはなかったけど。現金収入が無いもんやで、ちったなんか無けなかんってことで、焚き木を売ったりな。
薪からガスへ
昭和三〇年頃になると、ガスが出てきたんやな。家(うち)で湯沸かいたり、簡単な料理かな、そんくらいのものはガスでやるようになったわ。ガスボンベがな、丸いやつがあって、そいつを農協行って、空っぽ持ってってぇなすると返って来るってようなやり方で。ガスを使うようになって薪がちょっといらんようなった。今は土間ってやつはあらへんけど、この八畳間2つくらいの土間がどこの家(うち)でもあって、そこにクドってやつがあって、そこに大体三つぐらい穴が開いて、お釜乗せるとこが、お汁煮るとこ、お茶沸かすとこ、ご飯炊くとこって、どこの家(うち)でも三つぐらいのやつがあってな。そこでご飯を炊いて。それで焚き木や木の葉もいるしなあ。始めの焚き付けいるで。それから大きい木に燃え移るんやけど。そういうことやもんで、子どもの頃からマッチの使い方は全部知っとるし。今の子どもにマッチで火をつけえって言ってもできぃへんでな。だいたい小学生の一年生、二年生ぐらいからマッチの使い方は知っとるわ。どうやると火が消えんとかっていうことを自然と勉強していくんやわな。
山仕事から就職へ
その頃そんな、今のような職場あらへんもんやで、家(うち)の仕事手伝うっちゅうのが大半やった。次男坊、三男坊は遠いとこへ、はい中学おりると就職しちまよったもんやでな。高校行くやつはクラスの中の三分の一くらいしか行けなんだで。今ほとんど全部行くけど。三分の一くらいは高校行くけど、あとは就職やったでな、どっかへ。次男坊、三男坊が多かったもんやで。長男は家(うち)を継ぐっちゅうしきたりでなっとったもんやでな。
高校おりた時に就職先があらへなんだでな、三年ばか家(うち)におった。その間は山や。山で杉、檜(ひのき)、松、用材(ようざい)って言って、木を伐って。それをだいたい二軒ぐらいの長さにして、山のとこからダーッと、木馬てって木のソリに乗せて運び出すか、スラってやつを作っといて、木の伐ったやつで溝を造って、ダーッと並べて、そこに水打って上からターッと落とすような。伐った材料をガタガタッと並べるわけや。そいつをいくつか並べといて、そいで順番上から伐ったやつを落といて、できたやつを順番また落といて。落ってきたやつでまた溝を造ってくっていうような。そいで順番順番落としてな行く。落とすと下でつくねちょるやら、でそいつで造るやら。で上で造ったやつをまた流いてくと。そういうような材料を、伐って落とすような仕事やとか。或いは、下まで来たら、今度は、大きな、飛行機の、戦闘機の輪で車作ったやつがあるもんやで、そいつに木を乗せて運ぶとか。一人で引っ張れえへんもんやで二人ぐらいで。そうやって木を出したりってような仕事をしとった。こんな山ん中やもんやで、それ以外の仕事ってないもんやでな。
戦後やったもんやで、物は無い時やろ。物は無いけど、何や知らんの仕事はやらならんてやっちゃもんで。手でやるか、道具でやるかってやっちゃもんやで。道具が無けりゃ手でやるってやっちゃら。
昭和の三十五、六年になってようやく今度は人手不足になりかけて、日本列島改造なんてな、池田総理の頃にちょっと景気が良(よ)うなった。人が足らんやもんで、みんなとにかく遊んじょるやつは、あちこち全部就職するようになったもんやで、俺んたもその波に乗って就職しちゃったけど。