【聞き書き 柴田 典昭さん】
糧は山と田にあった
Posted: 2023.03.10
「聞き書き」は、インタビューや聞き取り調査とは違い、語り手の口調を一字一句そのままに書き起こしています。過疎化が進み、かつてあたりまえに営まれてきた里山での暮らしの知恵や技術が失われつつある中で、地域の人々の記憶を通じて、自然とともに生きる知恵や生活の哲学を学びます。
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三和で生まれて育ったんです。成人になってからは関市の方の消防本部で勤めてましたので。七年ぐらいかな、廿屋から離れた時がありましたけど。後はこちらから通ってましたのでね。ほぼ、三和で育っていったということです。生まれは昭和十九年の七月三十一日。七十七歳です。結婚は二十七歳、昭和四十六年で、子どもは長男と長女の二人おります。
子ども時代の手伝い~山~
お手伝いっていうと山と田んぼ。山は椎茸の原木伐り。菌打ちもそうやね。手回しの、穴開けるやつがあるんですよ。あれでほだ木に穴開けて。ほれで、菌は部落の人が協同で、菌種を作ってた。そいつを持ってきて、それで打って。もう部落の人はみんな作れたよ。公民館のこっちのところにね、ちょうど菌種を作る所があって。できた椎茸は、行商人で買いに来る人もあるんですけど、どの家も乾燥部屋を作っとって、乾燥椎茸も作ってた。今は、自動で温度かけて乾燥をやられるんやけどね、そういうやつはないもんで。ドラム缶を半分に切って、半分を横にして、こちらから穴あけて。木をくべとった。その木は、山から持ってきた薪やともったいないもんで、椎茸の原木で、何年か使ってるともう椎茸が出なくなってもせてきちゃうので、それを乾燥させて、燃料にして。ほれで、椎茸が出なくなった原木も大事にして。そういうので、燃料にして乾燥して、それ(乾燥椎茸)を業者の人が買いに来とったと。
稲刈りが終わると、今度は山伐りね。ちょうど十一月頃から三月四月頃まで。ほんたらまた田んぼやらな。この繰り返しやわね。木を倒すのも、全部鋸ですよ。全部手で。倒して枝を払って、その枝も今度は薪にしたり。細かい枝もまた束ねて。ちょっと売ったり。やから何にも山に残らない。今の人らは(山の木を)全部倒して、いいとこだけとって、後は全部ほったらかし。そんなことは昔はしなかった。地面に枝が落ちたりとか、そんなことあらへん。
薪割りもやってた。子どもの頃も大人なってからも、やってたね。山から伐ってきた原木にならん木は薪にしたりとか、自分とこの風呂の燃料作らなんもんでね。伐ってきたやつを、発動機でエンジンかけて、回転する鋸でジャーっと伐ってね。それで薪割りをして。自分ところ用に作ってたね。
炭焼きもね、私の覚えがあるのは、ちょうど家の窯があってね。椎茸の原木にならん木があるでしょう。ああいう木で炭を焼いて。親が窯に付きっきりで。お手伝いした覚えはある。ほんと(私が)小さいうちやっただけやね。
木やったんで
椎茸栽培は今はもうほとんどないし。もうこの部落でも、一軒だけになっちゃった。それは原木がね。なかなか自分の家で山を伐ってっていう、担い手がおらんくなっちゃった。山伐りは大変なことで。原木を購入してやるにはちょっと高すぎて、それならって話で、少しずつ椎茸作りができなくなったと。
昔はチェンソーなんかの機械も何もなしで、本当に手作業で自分の山から伐り出したり、自分の山がないと、よその山の木を買って伐ったりして。ほとんど休みなしに、小さいうちから山へは行ってたね。今のようにプロパンガスとか、電気関係の物は少なかったのでね。風呂なんかでも薪で沸かしとった。ごはんも竈で焚いて。その燃料が何かといったら木やったんで。全部を伐った残りのものを使って、風呂の燃料にしたり、お勝手の燃料にしたりというようなことやら、またそれを売りにも行っちょったりとか。薪にして、束にしてね。細かいのを全部縛って。関の方まで売りに行ったこともある。この山超えて。自動車があらへんもんで荷車で。親父が引く後ろを押して。朝早いうちから出て、途中の富加のへんの瓦屋さんに一部卸したり、関の方でまた半分を持ってったり。帰りは夕焼けがきれいだったでね。よくあんなことやっとったなあと思って。それが何か、普通の生活やって。強制されてどうこうということじゃなしに、自然にそういうことができとったんやなと思うね。
牛やったでね
畑を少しね、家の前に。もう道路が通っちゃったけども。ここは昔は畑やったんですよ。向こうの離れたところにも畑がありますけど、サルとかイノシシにやられちゃうもんで、なかなか面倒見ることはないですけど、少しだけは(野菜)作ってます。全部ね、電柵やってあるんです。ここの田んぼも、ぐるぐるーっと全部(電柵)やって。今は大きな田んぼになったけど、昔は小さな田んぼがたくさんあったんですよ。十一面あったのかな。この前の辺りにね。今は一つになっちゃったもんで、仕事をやるには楽になったけども、昔はそりゃえらかったわね。土地改良をずっとやってくださったもんで、機械も入るようなって楽になったもんです。
昔は、牛やったでね。牛で農耕作業やってて。ちょうど今のリビングあたりが、昔は土間になってて、牛小屋があって。今はペットで犬や猫は家の中入れますけれども、昔は牛が大事で、家の中おった。それで農耕作業をやってた。今はトラクターでやるでしょ。あれを全部、鋤っていう道具があるんですけど、それを牛の後ろにつけて、牛に引っ張らせて、土をおこしてった。代搔きも牛にやらせて。牛はまぁ大変やったわね。
牛は大事な大事な働き手やったわ。どの家でも牛を育てて家の中で飼ってたね。牛の餌は田んぼの、畦草とかね、レンゲを作ってやったりとか、藁に混ぜてね。なかなか今のような、和牛を育てたりする買った飼料を与えてるようなことは、うちなんかではそんなことはできなかった。全部農家で採れたものを、おが粉っていうか、米ぬかを混ぜて食べさせていたね。田んぼの肥料でもそうやね。今は化学肥料で全部やってますけど、昔は石灰窒素っていう藁を腐らせる肥料はやってたんですけど、それ以外はいっさい。全部藁とか草を腐らせて、それを撒いて、田んぼの肥料にするというようなことをしていたね。牛に食わせたり、田んぼの肥えにしたりという。草も大事やったね。
牛を使っていたのはいつ頃やったかなー。昭和三十年代までやね。子牛を買ってきて、それを育てるんよね。そして、調教しなんのやわあ。変なとこ行っちゃうもんで。ベーっと走っちゃうもんで。それを調教するのがむずかしょうて。最初は手綱を持ったんやけど、終いには手綱なしでもね、後ろを付いて行くように。そういう調教をしなんもんで。自分たちで。牛は黒牛。当然年をとるとエラがって農作業できんようになっちゃうので、今度それを売って、今度は違う子牛を買って育てる。その繰り返しで。それで、メスやなしに、オスを買ってくるんやけど。オス、力があるんやけども暴れるもんでね、金抜きっていって、金玉取って去勢をするの。そうすっとおとなしくなって従順するようになる。ほんで、順番に土を掘り起こしていくんやけど、これが真っすぐ行かないで、こんなふうへ(曲がって)行ってまったら、耕作が全然やれへんもんで。真っすぐ行かせるように調教しな。私は調教したことはないんやけど、親父が全部やっとった。特に調教の仕方を学ぶ場があったとかではないでね。みんな我流で言うことを聞かせよったよね。手綱を取ったことは私もあるけどね。
子ども時代の家の手伝い~田植え~
田んぼのお手伝いっつーと、学校でも農繁休暇っていうお休みがあったでね。学校自体がもう、そういうお手伝いをしなさいという日が、二、三日間はあった。その他にも学校を早引きしてきてね。「今日は昼からちょっとお手伝い入れさせてください」と言って家に帰ってきて、稲刈りをしたり、田植えをしたりと、いうようなこともありましたね。
田植えは家族で。あと手間替えっていってね、親戚の人だとか隣近所空いとる人に来てもらって、その代わり今度は空いたところは行きますよという手間替えっていう、助け合いがあった。屋根の葺き替えもそうやわね。今では結の精神ってありますけど、あれと同じことで。手間替えって言ってましたけどね。
稲刈りも機械がないもんで、全部手で刈って、はさがけして、足踏みの脱穀をして。乾燥機もないもんで、天気のいい日は外へ出して、並べて干して、夕方になったらまたそれを取り込んで、その繰り返しで乾燥してね。ほんとに朝から晩まで働きづめやったね。
月明りで稲のはさがけをして、それから家へ来て、それから夕飯をつくるので、夕飯はもう八時九時ばっかよ。ほとんど月明りでやってたね。電気も、懐中電灯も使ったことない。この家の前でもはさがけやっとったんやけど、十三段から十五段の高さにはさがけをするんやわ。俺が上のぼったところに、下からビューっと(稲の束が)一つ飛んでくる。ほんで、それをかける。そしたらまた下からビューっと。月明かりが暗いもんで具合がわからんだでね。たいぶ苦労したことあったっけ。
忙しい時は弟なんかは、この縁側のところに体を紐で縛られて。それで親父んた田んぼで仕事しとった。(弟が)どこへ行ってまってもあかんもんで、こういうふうに縛っちゃった。動物みたいなもんやわ。はっはっはっは。それでないとやれなんだということよね。だもんで子どもなんかはほとんどほったらかしやった。みんなだいたいそんな感じやった。みんな遅くまで働いてたね。
麦を踏み、うどんを食べる
今は稲作だけですけどね、昔は麦も作ったもんです。麦を作らなん理由は、屋根が茅葺屋根だったでしょ。その茅がないと葺き替えがやれんので、作って、二年なり三年なり備蓄して、たくさん溜まったら、屋根の葺き替えをやるということなんです。大変やった。今は稲刈りしたら来年の田植えまで放りっぱなし。昔は稲刈りが済むと、次は麦の種まきで、それから手入れて、冬の麦踏みしたりね。麦踏みはね。ちゃんと押さえてやらんと、丈夫なふうに出てこないの。このぐらい(十㎝~十五㎝)に芽が出てきたら、それを全部倒しちゃうの、足で踏んじゃって。子どもん頃から駆り出されて。田んぼん中、足で踏んで。そうすると丈夫な麦わらできてきて、成長するの。
屋根の葺き替えは、お手伝いさんに来てもらって。麦は、廿屋口の突き当りのところにうどん屋さんがあって。そこへ私んとこで採ったやつ、全部持ってくんです。そんで物々交換やね。うどんをもらってきて。「もううどんがないよ」って言われるまでもらってきた。それで子どもん時はうどんばっか食べてたね。そりゃ米も食べましたけど、うどんが多かったね。
三和への想い
土地がだいぶ荒れてきましたけども、やっぱり三和の魅力は、自然は豊かであるということだろうと。蛍の出る環境面で考えてみてもね、自然環境は整っていて、いいなと思ってますし、地域性というか、人の良さとかね、そういうのは本当に良い地域ですので。人に遠慮してものを喋るとか、そういうようなことはなし。ざっくばらんにお話できて、もうみんないい方ばっかりですので、そういう点は恵まれた環境であるんやなとは思いますね。
ただ将来は、農耕作がどうなるかということが、一番気がかりなことではありますね。機械になったけれども、なかなかエライもんね。これから先もなんとかやっててほしいと思うんやけどね。
ここにも空き家がありますので、若い人が来てくれてね、一緒になってやってくださる人が増えてくると一番いい。どえらい発展をしてくれんでもいいけど、今の環境を維持できるようなね、そういう人が本当に来てくれるとありがたいね。
WRITER
さとやまシューレ
文: 佐藤 聖人、写真:黒元 雅史(STUDIO crossing)
Posted: 2023.03.10