千年後も変わらない里山のある暮らし。持続可能な未来を考える

【林業と神職の若き担い手・稲垣靖さん】

「しずかに、ていねいに」

Posted: 2021.10.12

INTERVIEW

PROFILE

稲垣 靖(いながき・やすし)

岐阜県加茂郡東白川村出身。5代にわたり受け継ぐ山で林業を営む傍ら、神職としての役割も担う。岐阜農林高校、岐阜県立森林文化アカデミーで学んだ後、東白川森林組合で3年ほど修行し、現在は約140haもの山を父とふたりで管理。先祖代々受け継がれてきた山を未来へ繋ぐことを目標に、意欲的に活動中。

標高1,000m級の山々に囲まれ、総面積の90%が山林という東白川村。山のうち73%を占める人工林は、東白川村が誇るブランド「東濃ひのき」が植林されています。

また、明治時代におこなわれた廃仏毀釈によって、村の仏教建造物のほとんどが破壊された東白川村ではそれ以後もお寺が再建されることなく、全国でも珍しいお寺のない村という特徴を持っています。

東白川村に欠かせない林業と、村民のほとんどが神道という環境で欠かせない存在の神職。そのふたつを生業にしている稲垣靖さんから、里山での生き方や誇りについてお話を伺いました。

今、ここにある木々は、稲垣さんの先祖が次世代のために植林したもの。

山で育つ。山を育てる。
「初めて植樹したのは小学校低学年の頃でした」

強靭なねばり、ピンクがかった肌色、さわやかな芳香が特徴の高級建築材ブランド「東濃ひのき」。何十年もの時間をかけ、世代を超えて手塩にかけて育成する丁寧な作業と、厳しい気象条件の中で年輪を刻んだ「東濃ひのき」は村一番の特産品です。

稲垣さんが管理する山は約140ha。東京ドーム約29個分の広さの山を、親子ふたりで守り育んでいます。稲垣さんは現在37歳。小さい頃から家族に連れられてよく山へ行っていたそうです。「学校がお休みの日には山へ行って、植林したり、遊びながら山仕事を教えてもらったりしました。初めて植林したのは小学校低学年の時。急な坂で転んだり、ケガをしながら覚えていきました。先祖が林業を始めて、自分は5代目。はっきりと『後を継ぐ』という覚悟があったわけではなく、漠然と『継ぐことになるんだろうな』と思っていて、ごく自然に農林高校へ進学しました」と稲垣さん。その後、さらに岐阜県立森林文化アカデミーで学び、東白川森林組合に4年在籍。伐採の仕方や管理、市場の手伝いや販売など、林業に関する色々な業務を通して経験を積み重ねていったのです。

「山を守っていく」という意識が芽生えたのは、20代の修行期間中でした。

林業はとにかく体力仕事。コツを掴むまで、理屈と身体で覚えていった。

代々受け継がれてきた山を守る
その使命感がやりがいに。

家業を継ぐ前に、山仕事全体の仕事を知り、あらゆる知識を得る。そのために自ら設けた修行期間で身につけたのは、技術や知識だけではありませんでした。

「山は一朝一夕で育つものではなく、何代にもわたって守られてきたということを改めて実感する期間でもありました。この木もあの木も、自分の何倍もこの土地で生き続けてきたんですよね。絶対に守っていかなければ!という思いはプレッシャーになる一方で、やりがいでもあるのです」。幼い頃から山で過ごし、ごく当たり前に林業の道へ進んだ稲垣さんが、改めて『山を守っていく』『山をよみがえらせる』という使命感を持って決意を固めたのは、木一本一本と林業に本気で向き合ったこの期間があったからに他なりません。

木の生育具合を見ながら定期的に間伐をして、木がまっすぐ伸びるように手を入れる。この果てしない作業を丁寧に、ただひたすら行っていく。「枝を減らすことで暗かった山に光が入るようになるんです。『山がよみがえった!』と感じるこの瞬間が、一番の喜びですね。この山にあるものは、すべて人の手で植えたもの。だからこそ、最後まできちんと面倒を見ていきたい。そうしなくてはならないのだと思うのです」。

育ちの悪い木、他の木の成長を妨げる木は、幹の皮を剥ぐ「巻き枯らし」を行います。

一番怖いのは、自然災害
100年かけて育てた木が一晩で倒れてしまう。

林業を行ううえで、環境の変化を切々と感じているという稲垣さん。「一番怖いのは台風ですね。昔から台風はありましたが、ここのところ、集中豪雨の被害が大きくなってきました。一度に多くの雨が降ると、水が土の中へ溜まりすぎてしまい、作業道の土が流されて抜けてしまうのです。そうすると山へ入ることすらできなくなってしまうので、水の処理の仕方が課題。壊れないような道の作り方をしていかなければならないと試行錯誤しています。祖父、曾祖父が僕たちのために植えて、100年かけて大切に育んできた木が、一夜にして倒れてしまう。恐怖でしかありません」。また、猟師が減少していることによる変化も実感しているそうです。年々猟師が減ってきたことで獣害が増加。エサの代わりに苗や木の幹を食べられてしまい、ついには木が腐ってしまうのです。対策を組合で話し合い、時には林業専門雑誌で情報を仕入れることも。日に日に変わりゆく環境の中で、いかに山を守っていくのか。ひと昔前と同じやり方が通用しなくなってきている昨今、常に自然と向き合いながら、稲垣さんの戦いは続いていきます。

張り巡らされた根は、この地に数十年~100年ほど生き続けた証。

植えるのは、未来のため。
50年後、100年後の子どもたちのために。

植林してから、利用間伐するまでにかかる時間は約50年。手をかけて、時間をかけて、大切に育てていきます。木をまっすぐ伸ばすために、小さいうちに裾枝払(地面から約1~1.5mの高さまでの下枝を伐る作業)をし、12~3年目で枝打ちを行い、木の成長具合を見て間引きをしていきます。最も良質な1本を作り上げるために、他の木を犠牲にして光が当たるように手を入れていく。これらの作業を、140haもの山にある木々に施していくのは、気が遠くなるほどの時間と手間がかかります。「現在、父とふたりで管理しているのですが、一度手を入れた木のことは頭に入っているので『そろそろ手を入れる時期かな』と様子を見ながら作業を進めています。先祖が植えたものを、責任をもって繋いでいきたい。自分の代で終わらせたくない。自分もまた未来のために植林して、育てていきたい。その一心ですね。村で育った子どもたちに、山が身近にあること、代々守り続けてきたものがあることを誇りに思ってほしいし、そういう暮らしに憧れてほしいとも思うんですよ。自分が植えた木が立派に成長し、丸太として市場へ旅立つ姿を見ることはできないけれど、未来のために、自分の子孫や村のために、これからも山を守っていきます」。

「先祖がしてきたように、未来の子どもたちのため、村のために山を守っていきます」

目標は「なんでもできる!かっこいい田舎のおっちゃん」

稲垣さんは林業のほか、東白川村になくてはならない神職としての顔も併せ持っています。稲垣さんは母方の祖父が神職をしており、その後継者として白羽の矢が立ちました。村民のほとんどが神道ということもあり、お葬式にも神職は欠かせない存在。そこで、会社勤めとは異なり、比較的自由が効く仕事に就いている稲垣さんは後継者として適任だったのです。

ひとりで何役もこなす「かっこいいおっちゃん」を目指す決意をした稲垣さん。

稲垣さんは悩みました。30歳ぐらいの時に「田舎でどう生きていくのか」を改めて考えたそうです。「父や祖父世代は、兼業して生活するのがこの村では一般的でした。夏はお茶の加工、冬は林業という暮らしですね。田舎を守るってこういうことなんじゃないかと、ふと思ったのです。夏は茶葉を加工するのが忙しい一方、伐採には向いていない季節なので林業の者は手伝うことができる。逆に冬になると茶農家の人が林業を手伝い、猟師をしてくれる。お互いに助け合い、労力を補い合いながら、この土地と産業を守っていくのが田舎としての生き方なんじゃないか!って思ったのです」。こうして、兼業で神職を担うことを決意。そして、もうひとつ。高山で茅葺職人をやっている友だちとのやりとりもきっかけのひとつに。「田舎のおっちゃんって、なんでもできてかっこいいよな!機械も直せるし、山も守ってくれる」。それに加えて、神職として村の人たちの役に立つことができるなら…。目指すべき姿が見えたことも、稲垣さんの大きなターニングポイントになりました。

自身が生まれ育った「林業の後継者」としての環境を受け入れ、真剣に受け止めた結果、未来のために山を守りたい!村に欠かせない『かっこいいおっちゃんになりたい』という目標を見出した稲垣さん。50年、100年と世代を超えて守り、未来へ繋いでいくのは、里山そのものではなく、里山で生きることの「誇り」なのかもしれません。

山を守るということは、東白川村の産業を守るということ。若き後継者の今後の活躍に期待を。

WRITER

吉満 智子(よしみつ・ともこ)/ ライター

愛知県出身、岐阜県御嵩町在住。結婚式場と人をつなぐ仕事をメインに活動中。「ご縁を結ぶ」様々なかたちを目の当たりにし、その根っこにある「人を大切にする想い」の普遍性にしみじみする日々。御嵩に移り住んで感動したのは、徒歩圏内に蛍が飛び交うさまを見られ場所があるということ。守るべきものは、今この瞬間だと実感。

文: 吉満 智子(o-hana)、写真:黒元 雅史(STUDIO crossing)

Posted: 2021.10.12

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